追憶に刻む

こちらの本 に収録のモブ×ランス🔞描写を抜いたアレン×ランスSSです
◆封印開始から2年前、フェレ家に仕える以前の主と逢瀬を重ねるランスだが…。
◆後半アレン×ランスというよりアレン+ランスの話
 夜の帳が主君の寝室を静寂で包むころ、ランスは手にした燭台の灯りを頼りに室内へ足を踏み入れた。
 主であるこの土地の領主は寝台に腰掛けており、その表情には普段の厳格さとは異なる柔らかなものが浮かんでいる。

「ああ……よく来てくれた」
 低く落ち着いた声がランスの鼓膜を揺らす。
 主の瞳には深い慈愛が宿っており、これまで幾度となくランスが見たその優しい眼差しに、彼は安堵と少しの緊張を感じていた。
「はい……ご用命とあらば」
 ランスは礼儀正しく一礼すると、主の許可を待つように部屋の片隅に立ち尽くした。
「こちらへ来なさい」
 主の声に導かれるまま主の待つ寝台へ近づく。彼が傍らに跪くと、主はそっとランスの頬に手を添えた。年を刻んだ指先は温かく、その体温がランスの緊張を解きほぐしていく。
「今日はおまえを正式な騎士として叙した祝いだ」
「ありがとうございます……ひとえに主様のご薫陶の賜物にございます」
 ランスの言葉に偽りはない。若くして騎士に叙されたのは、主である領主の庇護によるものだ。ランスの両親も同じ領主に仕えし騎士であったが、共に戦に散り、彼は幼くして孤児となった。
 戦禍で両親を失った孤独な少年にとって、この主家こそが唯一の心の拠り所だった。
「だがな」
 主はランスの手を取り、ゆっくりと指を絡めた。
「私はお前をただの臣下である以上に……大切に想ってきたのだよ」
 その言葉にランスの胸が高鳴った。主の想いは幼少期から育成者の域を超えていることを薄々感じていたが、こうして明確に告げられると動揺を隠せなかった。
「私がずっと……我慢していた理由がわかるか?」
 主の声には微かな焦りと熱が籠もっている。ランスは俯き加減に答えた。
「従騎士の身でしたので……」
「それだけではない」
「……!」
 主はランスを引き寄せるとそっと抱きしめた。胸元に顔を埋める形となり、成熟した男の香りが鼻腔を満たす。温もりと鼓動がランスの心拍をさらに速めさせた。
「お前が成人し、正式な騎士となった今こそ……我が想いを遂げさせてほしい」
 囁きながら主はランスの背筋をなぞるように撫で下ろす。その手つきは巧みで、官能的な刺激を伴っていた。ランスの全身が粟立つように反応し、無意識に吐息が漏れてしまう。
「は……い……、私で……良ければ」
 ランスは震える声で承諾した。幼い頃から憧れ慕ってきた存在からの求めに否応なく応じてしまうのは、ランスにとって当然だった。騎士としての忠誠心と恋慕の情念が複雑に絡み合いながらも、それを受け入れる覚悟はこうして閨に呼ばれた時点で決めていた。

 主は嬉しそうに微笑み、さらに強くランスを抱きしめる。それからゆっくりと身体を離すと顎先を持ち上げた。
 年齢を感じさせる乾いた唇が近づく中で、ランスは自然と目を瞑る。
 触れ合う二つの唇はすぐに柔らかく湿り気を帯び、互いの体温が伝わるにつれ甘美な感覚を生む。何度か啄むような口付けを交わした後、主の舌先が唇の隙間を優しく割り開く。 それに応えるかのようにランスも拙いながら必死で舌を絡め始めた。
「んっ……ふぅ……」
 蝋燭の僅かな灯が揺れる部屋に甘美な喘ぎが零れ落ちる。
 ランスの頬が紅潮していく様を見下ろしながら、主は彼の、朝露に濡れた新緑のように艶のある緑の髪へ愛おしそうに指を通した。
 口付けを交わしながら主は器用にランスの首元から胸元へ手を伸ばすと、前合わせの衣服の鉤を取り去る。露わになった肌は汗ばんでおり、仄暗い照明の中で艶めいていた。

「お前は、美しいな……」
 称賛の言葉を口にする主に感謝と羞恥心が入り混じった感情を抱きつつも、ランスは静かに受け入れた。鍛錬により引き締まった若い肉体には未熟さや瑞々しさを感じさせる部分もあり、それが却って扇情的に映るらしい。
 続いて主も夜着のローブをはだけ下帯姿となった。豊かな白髪と同様に身体全体にも年相応の衰えが見られる一方、布を押し上げる逞しく隆起した男性器だけが例外的に若さを保っており、異彩を放っているようにすら見える。
「本当に……私で、良いのですか……?」
 その姿を認め、改めて主の情欲を実感したランスは全身を強張らせる。急に羞恥から主から顔を背けようとするが、片手で軽々と制止された上で主の寝台へ押し倒される。
「何度も言わせてくれるな?……お前でなければならないんだ」
 主の真摯で激しい想いに触れ、ようやく胸の奥に巣くっていた不安が静まっていくのを感じる。ただ求められているのではない。愛されているのだと知れたことが、何よりも彼の心を満たしていた。

 主に望まれるならば――そう思えたことが、不思議なほど彼の心を穏やかにしていた。



(中略)



 気がつけば朝になっていた。
 目覚めた時には既に身綺麗にされていた為、昨夜のことは夢だったのではないかと錯覚しそうになるくらい現実味がない。
 しかし実際にシーツの上に起こした身体にはひきつったような重い感触が残されていた。思わず、主が身に放った熱を確かめるように薄い腹を撫でる。
 隣では既に起きて身支度を調えている最中の主の姿があり、彼は寝ぼけ眼を瞬かせるランスの姿を見るなり微笑みかけてきた。
「よく眠れたか?」
「は……、はい……」
 ランスはその言葉に少々照れ臭さを感じながらも、素直に返事をした。
 それからランスは主の着替えを手伝うべく立ち上がろうとするが、腰の痛みにふらついてしまう。寝台の横で膝を折って蹲るランスに慌てて駆け寄る主に無理をするなと諫められ、反対に脱がされていた衣服を着せ付けられる。
 己の不甲斐なさに歯噛みするランスに、主は優しくキスを落とした。
「申し訳ありません……」
「いいや、それでいい……こうして愛しいおまえと共に朝を迎えられた幸せを、もう少し堪能させてくれ」
 そう言ってランスを寝台に座らせると、身体を寄せる。昨夜の行為を労わる様に背を撫でる主の手の平の温かさを、ランスはじっと享受していた。


 正式な騎士となった後も、ランスは変わらず主の傍らに仕え続けた。夜ごと交わされる語らいと温もりは、彼の胸を満たす何より大切な時間となっていた。
 それは穏やかで幸福な日々だった――この日々がいつまでも続くものだと、若いランスは疑いもせず信じていたのだ。
 
 しかし、その平穏は長くは続かなかった。
 春の訪れとともに訪れたのは平和ではなく、突如として他国への侵略を開始したベルン王国からの脅威だった。

 ベルンと隣接する領地を持つ伯爵家が、突如として兵を動かし、ランスの主が統べる小さな領地への侵略を開始した。これは単なる偶発的な諍いではなく、古くからの領土争いに火をつけた策略だった。
 ベルンの軍勢が目前に迫る中、伯爵は一刻も早い勢力統合を望んでいた。強国への備えを名目として周辺領地の統合を唱え、しかしその実、伯爵が望んでいたのは辺境最大の勢力となることだった。老領主はその野心を見抜き、最後まで首を縦に振らなかった。
 領土を差し出せば戦は避けられる――しかしその代償として故郷を失う領民が生まれる。主は最後までその選択を拒み続けた。

「直ちに逃げろランス。お前だけでも生き延びよ」
 夜明け前の館で運命を悟った主は密かにランスを呼ぶと、切々と訴えた。過去の戦で子を喪った領主に、後継ぎと呼べる者は居ない。真新しい騎士の鎧に身を包んだランスを前に、まるで息子が蘇ったようだと呟いていた領主の姿が思い起こされる。領主にとってランスは誇りであり、唯一の光だったのだ。
「なりません主様! 主君を見捨て逃げ延びるなど……!」
 ランスは必死に反論した。だが主は毅然として言った。
「お前はまだ若く未来がある。私の遺志を継いでくれ」
 しかしランスの決意は固かった。
「ならば共に逃れます……!主様一人を残して、おめおめと生きられるはずがありません!」

 二人は夜陰に紛れて館を抜け出した。領主館に残された他の古強者の騎士達が時間を稼いでいる間に、何としてもこのリキア諸国を纏めるオスティアまで落ち延び、保護を求める必要があった。
 月のない暗闇の中、馬を走らせるランスの心臓が早鐘を打つ。主を守り抜くという責任が重くのしかかる。
 だが敵の追跡は予想以上に迅速だった。間者により情報が漏れていたのか、森の出口近くでランスたちは十数人の武装した傭兵たちに囲まれた。月光が彼らの刀身を冷たく照らし出す。
「逃げられると困りますなぁ、小領主殿」
 傭兵隊長が下劣な笑みを浮かべながら近づいてきた。



(中略)



 朝焼けの淡い光が小窓から差し込み、埃っぽい兵舎の空気を黄金色に染め上げる。
 ランスは閉じた瞼の裏で眩い朝の光を感じ、現実に引き戻された。頬には乾いた涙の跡がくっきりと残っている。
「……っ」
 呻きながら身体を起こすと、背中の古傷が引き攣れるように疼いた。薄い夜着の下で肉がまだ完全に癒えていないことを示すように疼く。二年前、主を喪ったあの時の傷だ。傷は癒えても記憶は鮮明に残っている。主の最期の微笑み、血に塗れた掌が頬を撫でた感触。
「……また……、あの夢か……」
 掠れた声で呟くと同時に頭痛が襲ってきた。こめかみを押さえながらシーツの上で踞ると、隣の寝台から弾けるような声が飛んだ。
「おいランス!どうした⁈」
 乱暴に布団を跳ね除けて起き上がったのはアレンだった。
 赤毛の髪を短く刈り込んだ精悍な青年で、ランスと同期のフェレ騎士だ。ランスと初対面の時から対抗意識を抱く彼はあらゆる訓練でランスに張り合い、しかしランスも譲る気は毛頭ない。そのうち、領主館の至る所で無遠慮に会話を交わす間柄にまでなっていた。
 だが今は、その屈託のない声がランスの神経を逆撫でする。
「……何でもない」
 短く答えるとアレンは眉を吊り上げた。
「何でもないって顔じゃないだろう。そんな生白い顔して」
「ほうっておいてくれ」
 無感情に言い放つとアレンは黙り込んだ。いつもなら執拗に絡んでくるのに珍しく引く様子にランスは違和感を覚えたが、追求する気力もない。代わりに寝台に膝を抱え座り込んだ。
 指先が震えている。膝頭に額を預けると、硬い骨に頭痛がする頭を押し付ける。
「……ランス」
 暫くしてアレンが近づく気配を感じた。しかし顔を上げる気になれず沈黙していると、隣に腰を下ろす衣擦れの音がした。
「また例の夢か?」
 ランスは答えない。だがその沈黙こそが答えだった。
 二年経ってもなお主の死は生々しく残っている。葬り去ることも忘れることもできない。それはまるで傷口に染み込む毒のように日々を蝕んでいく。
 リキア同盟の旗印となった現主君エリウッドの息子、ロイに立ちはだかる強国ベルンとの戦の激化がそれを加速させていた。
「……このところ毎晩、か?」
「………。」
「……そうか……」
 アレンの声が少し柔らかくなった。普段は豪胆な彼だが、この時ばかりはランスの心情を汲み取っているようだった。

「なぁランス。俺たちは騎士だろう?主の為に命懸けで戦うのが使命だ。どんな時も先陣をきって前に進む……それでも、辛い時は何でも話してくれ」
 ランスは唇を噛んだ。この優しさが逆に苦しい。自分は何も変わっていない。主を守れなかった罪悪感と自責の念で押し潰されそうだというのに。
 アレンのように真っ直ぐ前だけを向いて生きられるならどんなに楽だろう……そう思いながらも言葉にはできない。ただ膝を抱え頭を垂れるしかなかった。
「……無理するな、お前には俺がついてる」
 アレンはそれ以上何も言わず立ち上がったが、ランスはその言葉に目を見開いた。
 かつて主と初めて身体を結んだその翌日――目覚めたときにかけてくれた言葉。
 無理をするな……と優しい声が耳の奥に反響する。
 寝台から離れたアレンは窓際で外を眺め始めた。その背中越しに朝日が射し込む。その眩しさにランスは目を細める。

 この苦しみは自分だけのもので、他人に理解できる筈がないと思っていた――けれど、アレンのような存在がまだこの世界に居るならば、耐えられるのかもしれないと思い直す。
 ほんの僅かだが、心が軽くなった気がした。

 ランスは深く息を吐き出すと、重い足取りで立ち上がった。
「……アレン」
 呼びかけると青年は振り返った。
「ん?」
「すまない……ありがとう」
 ランスは静かに微笑んだ。それはあの暗闇の夜以降、封印していた純粋な感情の表れだった。アレンは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに満面の笑みで応える。
「ああ。任せとけって」
 その言葉に勇気づけられたようにランスは窓枠を押し開けた。新鮮な朝の空気が部屋中に広がる。
「顔を洗ってくる」
「おお、俺も行こう」

 外では鳥たちが賑やかに囀り始めていた。その声に負けない位にアレンがランスに喋りかける様子に、騒々しい奴だと赤い頭に揺れる寝癖を見ながら心の中で呟く。
 しかしその声を聞きながら、ランスは誓った。いつか必ずこの傷を乗り越えようと。その日まで、この戦いを生き抜いてみせると。

 自らの傍らには必ず戦友のアレンがいると信じながら――ランスは新たな一日を歩み始めたのであった。


  
END



モブ攻め本って言ってもこんな尊いモブ攻めがあってもいいじゃん!と思いつつ、前半の前の主×ランス話を書いてました。捏造まみれですまない(今更)
中略部分が多くてちょっと薄味になったので前の主に愛されてるランスが見たい方はぜひ本編をどうぞ…🥹
アレン×ランスの昔の本とか早く再掲しろって話なんですけど、全書き直しだからな…しかも昔の私と解釈が違うとこあるし(大問題)
とは言えエリウッド×ランスも捨てがたいし、クルザード×ランスもいいよね(突然の覇者)
畳む

#アレン×ランス

狂瀾に寄せる

こちらの本 に収録のモブ×ギース🔞描写を抜いたガイツ×ギースSSです
◆封印開始から10年前、ガレー船の船員が起こした反乱により捕らえられた若き船長ギース。そこに駆けつけたのは…
◆後半ガイツ×ギース※近親相姦・キスのみ有り

 荒波を白く砕く音。追い風を受けた幌が悠然と船体を震わせる。
 ベルガー商会の旗艦である大きな帆船のマストが夕焼けに染まり、海鳥たちが鳴き交わす中――その異変は起こった。

 ギースは甲板上の柵にもたれかかり、遥か水平線に沈みゆく太陽を眺めていた。紫のゆるくウェーブがかった長い髪が潮風に揺れる。
 不意に、船長室から漏れる父の怒鳴り声が遠くに聞こえる。共に舵を取る親父はまた甲板掃除に手を抜く船員への叱咤に夢中らしいと独りごちた。
 商会の跡継ぎとして育てられたこの青年、ギースは今年で二十歳。
 起業者である父の元で船の商売を志したばかりの青二才だが、西の諸国では稀有な航海知識と商業センスを備えた若き実業家として知られていた。
 父から受け継いだばかりの青い長コートが波飛沫に濡れて光る。

「……こんな穏やかな海が永遠に続けばいいんだがな――」

 その刹那、下甲板から鈍い衝撃音と大きな悲鳴が響いた。反射的に懐剣の柄に手をかけると同時に、船が大きく傾く。足場を失ったギースは甲板に強かに打ちつけられた。
「いっ、て……ったく、いきなり何だってんだ⁉ ……おい、親父っ!」
 舵を握る父に向けて絶叫するが返答はない。続いて聞こえたのは大人数の乱れ歩く足音と怒号だった。船内で突如として暴動が起きたのだ。
 ギースの脳裏をよぎったのは数日前の会合でのやりとり――父が古参の船の従事者達を労働者ではなく〝奴隷〟として扱っているという事実。彼自身がその待遇の実態を初めて知り困惑した時の場面だ。
「まさか……いやそんな……親父が!」
 混乱する間もなく立ち上がると、複数の武装した男たちが甲板に繰り出す姿が見えた。
 武器を手にした彼らは駆け寄るギースを見るなり険しい表情を浮かべる。
「お前ら……!一体何のつもりだ⁉」
「黙ってろ、坊主!」
「俺たちの邪魔をするんじゃねえ!」
「おいっ!待てよっ‼」
 ギースは訳も分からず叫び返すが男達の血走った目を見て悟った。このままでは自分の身が危険だ、と。
「どけえぇッ‼」
 誰かの警告と共に斧が振り下ろされた。
 何とか避けようとしたが刃が左腕を掠め激痛が走る。脂汗が額に滲み、バランスを崩したギースは甲板に再び転がった。
 視界の隅で、男達に連行される血塗れの父の姿が見える。
「親父っ⁉くそっ……」
 意識が遠退く中でギースは己の運命を悟る。甲板の中央で反乱者たちに囲まれる父の姿。尊敬していた面影は消え失せ、代わりに地獄のような呻き声をあげる肉塊へと変貌していた。
「お……親父……!」
 最後に見えたのは真っ赤な血潮を浴びた男たちの狂気的な笑みだった。
 そしてギースの記憶は断絶した。


 次に目覚めたとき――ギースは薄暗い船倉の隅で鎖に繋がれていた。
 年季の入った木箱と錆びた鉄格子に囲まれ、じっとりとした蒸し暑さが肌に絡みつく。
 斬られた腕には包帯が巻かれていたが、倒れた時に激しく甲板に打ったせいか頭が割れそうな程痛む。周囲には生臭い血の匂いと黴臭い空気が漂う。
「起きたか、ギース坊ちゃん」
 野太い声が格子の外から響いた。猿轡を噛まされ声を出せないギースに影が覆い被さる。
 目の前に立つのは太い眉と禿げ上がった頭が印象的な壮年の男――名は知らないが商会に仕える古参の気のいい船乗りだという噂は聞いていた……が、今はまるで別人の如く冷酷な眼差しをしていた。
「ベルガーの親父さんは死んだ。お前は……今は残しておくことにしたがな」
 猿轡を外された途端に咳き込むギースの横で、男がゆっくりと語り始める。
「商会はもう終わった。俺等が新しい時代を作るんだ」
「なん……だよそれ……、親父が……お前らを奴隷扱いしてたからか?」
「ふん。奴隷か。お前は何も知らずに育てられただろうがな。俺たちはずっとベルガー家の贅沢のために来る日も来る日も船を漕ぎ、働き続けたんだぞ?なのに待遇改善どころか……」
 男の声が段々と怒りを孕むにつれて拳が震え始めた。彼の背後に控える他の男達も各々武器を構えながら同様に頷く。
「そもそもお前みたいな若い小僧に商会の跡継ぎを任せるなんざ……これ以上親馬鹿ジジイの戯れ言に付き合ってられるかよ!」
 男の言葉は真実味を帯びていたが、同時にギースの中に不条理な感情を呼び起こした。自分はただ父の下に就いて航海術や商業を学んできただけなのだ。
「……あんた達が親父の船で過酷な働きを強いられていたのは知ってた……だが、俺にはどうすることも出来なかった……それは……悪かったと思っている」
 ギースの胸中に父と大喧嘩の末、数年前に家を去ってしまった兄の姿が宿る。あの時のギースは十歳そこそこの子供だった。
 商会を一代で築き上げた父の権力の元、何も言わず従うしかない。ましてやギースは父が商売先の港町で出会ったという酒場勤めの若い踊り子との間にできた、妾の子の立場だった。
「だが……!俺は親父とは違う!親父に船を任されて、やっとあんた達の待遇を変えられると思っていたのに……‼親父に、お前ら何てことを……」
 ギースの瞳から涙が零れ落ちる。悔しさと怒りが入り混じった叫びを聞き届けるものは誰もいない。
「うるせえ!泣いても無駄だ。お前は憎きベルガーの強欲ジジイの血を引いている……生かすか殺すか、これから話し合って決める」
 男が威嚇する間にも別の船乗りが彼の左腕の傷口を消毒し直す。
「一応血は止まってるがな……安静にしてろ。下手に動かれたら困る」
「………。」

 その後、牢内で過ごす時間がどれくらい経ったのか。窓から差し込む光を見ると丁度夜明け頃だと思われた。
 鎖は両足首と手首に巻かれており、立つことすら難しい状況だった。
 それでもギースは懸命に思考を巡らせる。
(何とかあいつ等を説得しねえと……誰か……俺の話を聞いてくれそうな奴は……)

 ふと視界の端で船室の扉が開く。大勢の足音と共に甲板からのどよめきが伝わってくるようだ。
 ギースが開いた扉から外を見ると、そこには数人の武装した男達と縄に繋がれた者達が引き立てられる様子があった。
 どうやら反乱を起こした船員達とそれ以外の従事者間で意見が食い違い、新たな揉め事が起きたらしい。
「おいっ! 話が違うだろ!」
「うるせえっ! あいつの息の根も止めるべきだ!」
 争う声と共に扉が激しく開閉されると、一人の男が勢いよく転がり込んだ。名はすぐ思い出せないが、筋肉質な壮年の出で立ちから彼もまた長く船員として働いてきたのであろう。
「ギース坊っちゃん……」
 掠れた声で呼びかけるその髭面の男に、ギースは眉を顰めた。
「……あんたは……信じてくれるか?俺を……」
 ギースが拘束された男に語りかけようとしたその時、アイツを出せ!と船室の外から声がかかった。
 数人の浅黒い肌の男が格子を潜ってギースの側にやってくる。男たちは繋いだ鎖を解くとギースを引き起こし、外に出るよう促した。
「……くそ……」
 ギースは渋々男に鎖を引かれて甲板へ出た。おそらくこれから処刑か……それとも。
 待ち受ける運命にせめて一筋の光明が差すことを、願わずにはいられなかった。

 甲板へ出たギースを取り囲む船員達。皆、薄汚い布切れのような着衣に汚れた肌で、それでいて目付きだけがぎらぎらと凶悪に光りながら、風に靡くギースの艶やかな長い髪を見詰めていた。
 商船を乗っ取った彼らは徹底的にベルガー家を支配するつもりなのだ。その証拠としてこれから、跡継ぎであるギースに対して残虐な行為が始まろうとしていた。
「くっ……!」
 殺気立つ男たちの剣幕に、ギースは本能的に後退りするものの後ろ手にがっちりと拘束された鎖を握る男がそれを許さない。
「来たか、そこへ立たせろ」
 首謀者の古参の禿男がギースの姿を認めて指示する。鎖を握る男達によってギースは中央の太いマストに上半身ごと縄で巻かれ、固定された。
「……さて……お前をどうするか、決をとった。これから俺達の言うことをきくんなら、命だけは助けてやる。だが抵抗すればその時は……」
「………。」
 このまま即刻頭をかち割られる事はないようで、少しの安堵がギースの胸中に去来する。同時に男が何を要求してくるか不安がよぎるが、これまでの因縁を断ち切るため、自分が出来る分は叶えてやるしかない。
 とにかく金と、待遇改善を……そう思ったギースに、男は予想外の希望を口にした。
「一先ずお前は俺達の慰み物になってもらう」
「…………はあっ……⁈」
 まさか、と見開いた紫の瞳に、取り囲む男達が次々とにやついた笑みを浮かべ始める。
「ベルガーの御曹司はこの西方じゃ類を見ねえ美丈夫だって評判だからなあ……なあ、ギースお坊ちゃんよ」
「小せえ頃から何度船室で襲ってやろうかと思ったか分かりゃしねえよ」
「ちげえねえ」
 嘲笑する男達に悔しさから唇を噛み締めるギースだったが、ここで諦めるわけにはいかなかった。縛られているとはいえ足を動かすことは可能だ。隙を窺ってこの場から逃れなくては。
 幸いにも首謀者はこちらの目論見に気づいていない様子で、相変わらず気味の悪い笑みを浮かべながらこちらに近付いてくる。
(よし、来い……近寄ったらタマを蹴り上げて……それから)
「……うわっ⁉」
 しかし突然両足を掴まれたかと思うとそのまま左右に引っ張り上げられる。足枷に繋がっていた鎖の先を両脇にいた男が縄に繋ぎ、引き上げたのだ。
 予期せぬ強引な動作に思わず声を上げてしまう。そしてその声を聞いた他の男達も一斉にこちらへ向かってきた。
「おっと……暴れんなよ?傷モノにしちまうかもしれん」
「ッ……ふざけるなっ!……何で俺がそんな目に遭わなきゃいけねえんだ……‼」
「吼えるな、ガキが」
「まあまあ……今からその生意気なお口で奉仕してもらいますぜ、坊っちゃん」
「っ!」
 ギースの頬を撫でた男の分厚い手に寒気を覚え、思わず顔を背けてしまう。するとその反応が面白いと思ったのか今度は首筋へ指先を這わせ始めた。
 ぞわりとする感覚に全身が震える。
「やめろ……!」
 必死になって抵抗するも両手両足を縄でマストに固定された身体に出来る事など何も無かった。
 胸元に手を掛けられると、白いシャツを紙切れのように破り捨てられてしまう。健康的な色をした胸筋や引き締まった腹が朝日の元に曝された。
「ほおぅ、大した身体だ。あのオヤジが金にうるさかったせいで、俺たちはろくなもん食わせて貰えなかったもんだからな」
「……っく」
「その身体でたっぷりとサービスしてもらおうじゃねえか!」
 腰布を解かれ、ついにズボンを引き下ろされると男達が歓声に沸いた。
 羞恥よりも強い悔しさが胸中に渦を巻く。



(中略)



(俺はもう……ここまでなのか……?)
 ギースが天を仰ぎ、覚悟を決めようとした瞬間――。

「てめえらぁ‼何してやがる‼」

 甲板に船を揺るがす程の怒号が響いた。
「誰だぁ⁉」
 首謀者の男が吠えるや否や、何かが風を切り裂く音がした。刹那、ギースの視界を赤い血飛沫が覆う。鈍い衝撃音と共に首謀者の体躯が傾いた。

 鮮血が舷墻に散る。飛来した巨大な斧が男の喉笛を串刺しにしていたのだ。
「ヒッ‼な、なんだ……?」
 周囲の船員たちがどよめく中、船尾の陰から筋骨隆々とした影が浮かび上がる。
 そこに居たのはギースと同じ髪色をした短髪の男。無造作に撫で付けられた後ろ髪が風に揺れ、彫像のように筋肉が刻まれた逞しい体躯と鼻梁が浮かび上がる。
「兄……貴……?」
 掠れた声で呟くギースに答えることなく、ガイツは船尾板から跳躍した。彼の手には研ぎ澄まされた斧が握られている。
「よくも弟を……‼」
 怒号と共にガイツが駆ける。船員たちが次々と斧を構えるが、彼の動きは疾風のようだった。一人目は喉を掻き切られ声もなく倒れる。二人目は腹部をぱくりと切り裂かれ悶絶する。
「ワアアッ‼……やめろ!助けてくれぇっ‼」
 悲鳴と怒号が渦巻く甲板上で、ガイツの姿だけが異質な空気を湛えていた。険しい切れ長の瞳が怒りの炎を宿し煌めく。まさに荒くれ者の頂点として君臨しているかのようだ。
「ひいいいぃっ!」
 次々と仲間を躯に変えていくガイツの姿に恐怖し、残りの船員達は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。中には必死でギースの縄を解き解放しようとする者もいたがガイツがそれを許さない。
「俺の弟から離れろォォ‼」
 彼の怒声と共に投げつけられた斧が逃げ腰の男の背中を貫いた。
 瞬く間に船内は阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わり果てていく。

「ぐっ……兄貴、もう……やめてくれ……!」
 マストに拘束されたままのギースは兄の狂気じみた姿に呆然とし、やがて喉を詰まらせながら叫んだ。逃げ惑う者まで切り捨てるようなやり方に心を痛めたのだ。
「……もう充分だ!これ以上はダメだ‼」
 その叫びが響くとガイツがぴたりと足を止めた。怒りで紅くなった目が弟の姿を捉える。
「……ギース」
 一瞬にして場が静まり返る。つい先ほどまで溢れていた血と叫びの混沌が嘘のように霧散する。繋がれたままのギースを食い入るように見つめるガイツ。
「……すまねえ、血が上っちまった」
 低く呟かれたその言葉には押し殺した憤怒と悲しみが入り混じっていた。


 斧の刃から血糊を振り払うと彼はギースへゆっくりと歩み寄る。
「お前がジジイの跡を継いだと港で聞いてな……ちょっくら姿でも拝んでやろうかと思って来たんだが……」
「兄貴……こんな真似をしなくても……俺が自分で何とか出来たかもしれないのに……」
「ふん。そんなザマでよく言うぜ。……いや、商会を捨てた俺が言えることじゃねえが」
 ガイツはそう言いながらもギースを拘束する縄を切ると、乱れた髪を払い、頬に優しく触れた。それは過去の記憶にある、優しかった兄の確かな温もりだった。
「ああ……でも……、来てくれてありがとう……兄貴……」
 戒めを解かれて甲板に膝をつくギースの肩を支えながらガイツは告げる。
「この連中は商会の腐敗の象徴だ。俺も昔、親父の下で扱き使われるこいつらに憐れみを抱いたさ……だが俺が一番大事なのはギース、お前だ。お前の身体を弄んだこの船の奴等は全員……切り捨ててやる!」
「それは駄目だ……」
「なぜだ!なら……どーすんだよ?」
「……俺は……」
 甲板に流れる息絶えた首謀者の赤い血を見ながらギースは決意を固める。父が築いたベルガー商会の名を継ぎ、残った船員達と和解して新たな航路を切り拓くこと――そして、兄と共に未来へ進むことを何より望んでいた。
「俺は親父の跡を継いだ。商会は俺が再生させる。兄貴は……俺と来てくれないのか?また昔みたいに、一緒に海へ……」
「……」
 ガイツはしばらく黙り込んだ後、深く溜め息をついた。そしてギースに自らの上着を着せかけると、囁くように言う。
「俺は……もう二度とここには戻らねえ」
「兄貴っ……!」
 どうして、と目を見開くギースに、ガイツは血に染まった甲板を指し示す。
「俺は結局、親父と同じなんだよ……自分の為なら、人を人とも思わねえ扱いをする。そんな奴がお前の隣に居ちゃならねえんだ」
 兄の言葉に二の句を継げないギースに、ガイツは踵を返す。名残惜しいけどよ、と甲板を軋ませながら去っていく広い背中。
「馬鹿兄貴‼それなら俺は、この商会を世界一にして……俺と一緒に来なかった事を後悔させてやるからなっ……‼」
 叫び声に驚いて振り返ると、ギースは大粒の涙を溢しながら握った拳を震わせていた。
「おう、その意気だぜ」
 思えば十年前、俺は商会を去るからお前が親父の跡を継げ――と告げた時にも、ギースは泣きながら怒りに震えていた。
 ガイツ兄ちゃんのバカ!意気地無し!恩知らず!と、ありとあらゆる罵声を振り掛けられ……そして、そんな弟に俺は何をしただろうか。
「んっ……!」
 顎を上向かせてギースの唇を塞ぐ。あの日と同じ、塩辛い味がした。
 あの時の弟との口づけは初めてで、どちらも舌がうまく絡まず辿々しかったが、今日のそれは激しく口腔を蹂躙した。
「……ふぅっ……んっ……兄貴……!」
 ギースは角度を変えて何度もガイツを求めてくる。息苦しさに顔を背けると、追い縋り舌を捩じ込んでくる。無理やり引き剥がし、宥めるように唇の端を撫でると今度は手の平に舌を這わせてくる始末。
 やめろと叱りつけるとギースは不服そうに口を尖らせる。
「兄貴の……ケチ……」
「バーカ、そんなでかい形姿(なり)で、ガキみてえに甘えんな」
 そう言って乱れた髪を撫でてやるが、弟は目線を合わさず拗ねたように俯くばかり。やれやれと思いつつも可愛い奴だと微笑まずにはいられない。
「今日はお前に逢えて良かった。俺はこれ以上お前を振り回さないようにするから……頑張れよ、ギース」
「……ふん……」
 小さく呟いて頭を下げた後、弟がやっと顔を上げた時には既に精悍な眼差しに戻っていた。先ほどの口づけで濡れた唇が妙に艶っぽい。
「じゃあな」
「……元気でな」
「おう」
 その声を背に受けながらガイツは再び踵を返す。甲板には血塗れの死体が幾つも転がっている。だが今はそれを弔う時間すら惜しい――
 弟の決意を邪魔せぬためにも、一刻も早くこの場を立ち去らなければならなかった。

「……行くか」
 潮風に身を委ね、船べりから水面を見下ろす。すっかり明るくなった海の波が白く揺れる中、ボロボロの小舟に移る。それは出奔後に知り合った海賊が乗り捨てていった舟である。
(まあ……見ててやるよ、この舟が沈んじまうまではな)
 最後に甲板へ一度だけ振り返り、沈黙を守ったまま去ってゆく。

 一方ギースも、その船影が見えなくなってもなお兄の残像を追うように、海上を見つめ続けていた。

――ガイツが再び帰還することは恐らくない。だがもし運命が巡り会うならば……その時こそ――

 風が吹き抜ける甲板の上でギースは誓う。この商船の舵を取り続ける。それが自身と兄の未来を繋ぐ、唯一の方法だと信じながら――。  


  
END



中略部分はここに掲載している以上に長いですwww
ガイツ→→→ギースだと思って助けに入ったらギースの方もめちゃめちゃ兄貴ラブだったという、真正の兄弟丼(船?)BL…最高かよ…。
で、これのガイツがもうちょっと救出に来るのが遅かったパターンかつ、兄弟で最後までがっつり致してるバージョンを当然のように用意してますので😎そのうちUPします。
(このモブ船員に××される話は昔書いた話のリメイクなんですけど、そっちの方が原型に近いんで)
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#ガイギス

 紅陰に覗く

こちらの本 に収録のモブ×ルトガー🔞描写を抜いたディールトSSです
◆ルトガーのブルガル侵攻回想→仲間入り後の話
◆まだ支援C前のディーク×ルトガー

 宵闇の中に浮かぶ月が、短い草の生えた丘陵に冷たい光を投げかけている。ルトガーは藪の中の大岩に腰かけ、紅いフードを揺らす湿った風を感じていた。
 顎を上げると、空高くに浮かぶ星々が彼を見下ろしている――父祖たちの魂が宿るといわれる光が、静かに瞬いていた。
 無意識に指先で腰に下げた剣柄をなぞると、冷たい鋼が鈍く輝く。戦火に焼かれた故郷を去る際にベルン兵の駐屯地から奪ったそれは、切っ先にわずかな反りを帯びた刃だ。傭兵として各地を転々とするルトガーが唯一手放さなかったその剣の輝きは、幾人もの兵の血に汚れる度に鈍く曇っていくように思えた。
 耳に届くのは己の微かな息遣いばかりだった。
 離れた野営地からは、松明の灯りと微かなざわめきが夜霧越しに揺らめいている。そこではルトガーと同じくリキア同盟軍に雇われた傭兵たちが酒を酌み交わし、一日の疲れを癒やしているのだろう。
 だがルトガーは決して混じろうとはしない。彼らの笑い声が寂寥とした草地に響くたびに、胸の奥底で何かが軋んだ。
 「仲間」と呼べるものなどとうにいない――そう自嘲すると同時に、不意に風が変わって鼻腔を突く匂いがあった。

 焦げつく風と血のにおい。

 それは現実のものではない。奴等が駆る竜の耳障りな咆哮や、青々とした草原を踏みにじる鉄靴の響きもないのに……。 ルトガーは顔を歪めた。身体が覚えているのだ。あの日、ブルガルの草原が真っ赤に染まった日のことを。
「……またか」
 低く呟いて片膝を抱える。冷えた風に煽られた髪が頬を打ち、亜麻色の前髪の隙間から鋭い眼差しが覗いた。月明かりに照らされてなお冷徹な瞳は、かつてサカの大地に降り注ぐ陽光の如き明るさを湛えていた時代からは考えられない程、今はただ復讐に燃える昏い炎を宿し、天を睨んでいた。

 記憶の鎖はふとした時に容易く解ける。否、いつだって戒めなど掛かってはいない。ただ日々の喧噪に埋もれさせていただけだった。
 しかし今夜は違った。敵陣の奥深くから薫ってくる血錆の臭いが、脳裏に眠る悪夢を目覚めさせる――


『立て』

 低く命ずる声。喉元に押し当てられた槍の穂先は冷たく濡れている。刃先が僅かに皮膚を抉り、血の雫が滴り落ちた。 周囲を囲むベルン兵の足下を覆う鋼のグリーブが視界に入る。膝を折ったルトガーは己を捕らえたその中の一人の男を目線だけで見上げた。
 屈辱。憎悪。――しかしそれ以上に全身を支配したのは震えるほどの絶望だった。敗北を悟った瞬間の無力感というものは、何物にも代え難い虚無感をもたらす。歯噛みする彼を嘲笑うかのように、眼前の鎧兜に身を包んだ人物が口を開く。
『抵抗は無駄だ。我々は貴様ら部族を一匹たりとも逃がさん』
 その言葉とともに騎竜のけたたましい咆哮が続いた。悲鳴があがる。男たちの怒号と女の啜り泣き、そして幼子の泣き叫ぶ声。
 視線を巡らせれば同胞たちが次々と槍で貫かれ大地に沈んでいた。
 土埃と硝煙で霞む空の下、逃げ惑うサカ人たちを青い竜鱗に跨がる兵士たちが追い立てる光景は、地獄絵図そのものだった。
 ルトガー自身も半ば朦朧としていた。腕を掴む手は強く硬く、骨が軋んだ。痛みに顔を歪めながらも、必死に睨み返す。その目に宿る鬼神の如き眼光に気圧されたのか、相手の兵士は一度だけ怯んだようだったが、すぐに懐の武器を振り上げた。
『大人しくついて来い。逆らえば即刻斬首だ』
 短い沈黙の後、ルトガーは呟く。
「……連れて行きたければ行けばいい。だが覚えておくことだ――」
 喉の奥から湧き上がる激情と悔恨を飲み込み、低く吐き捨てる。
「貴様らベルンには――サカの父なる天と母なる大地の大いなる怒りが下される……! 必ずだ」
 その言葉は行き場を失った怨嗟だった。けれど確かに呪詛として地に落ちた。鎧の下で相手が苦笑した気配がした。それは勝者の余裕であり、敗者に対する侮蔑でもあった。
『面白い冗談だ。せいぜい同胞が逃げ惑う姿を見るがいい』
 粗暴な動作で地面に叩きつけられる。土を舐めさせられながら、ルトガーは身を襲う痛みさえ忘れた。
 どうせもう終わりだ。ならば最後まで抗ってやる――そんな破滅的な思いだけが残っていた。

 気づけば腕を鎖で拘束され、両脇を固められて歩く姿は無様としか言いようがなかった。その横で同族の黒髪の少女が泣き叫びながら縄に繋がれていく。まだ年端も行かぬ女児の目には狂気が宿っていた。彼女は兵に罵倒されながら引っ張られる先に待つ運命を理解していないようだった。

 そうして集められた捕虜は村中央の族長のゲルに収監され、夜を迎えた。篝火に照らされる薄暗い天幕の中、捕虜たちが密集する様はさながら獣の檻だ。隣り合う人々の不安げな囁きを遮るように、外から鎧の音が近づいてくる。

『処刑を開始する』

 大幕の前に立つベルン将校が告げた途端、辺りから嗚咽と怒号が入り混じった。
 最初に引き出されたのは年老いた族長だった。白髪の交じった髭を震わせながらも、捕虜の命だけはと訴え涙を流す老人に敬意などなく、「蛮族の頭目」として即座に首を落とされた。剣を振るうベルン兵は表情を変えない。まるで肉屋が屠殺場で作業をするかのような無感情な動きだった。
 飛び散る鮮血が垂幕に弧を描き、近くで見ていた幼子が悲鳴をあげて失神した。

 その次には名の知れた勇猛なブルガルの戦士が引き出された。彼は最期まで誇り高く敵を罵倒し続けた。それが却って苛立ちを買ったのか、より残酷な方法で殺された。断末魔の絶叫が天幕に響き渡る。
 ルトガーは唇を噛み締めた。口の中いっぱいに鉄の味が広がったが、痛みなど感じない。ただ心臓を握り潰されるような激情だけが渦巻いていた。

 やがて順番が来る。鎖を引かれ血まみれの床に突き出された時だ。指揮官らしき男がふとルトガーの顔を見て眉をひそめた。
『……こいつは? ベルン人が混ざってるぞ』
 問われた参謀らしき男が応える。
『確かに……この者の顔はサカではなくベルン人のものですが、おそらく混血児でしょう。ここブルガルはベルンとの国境に面していますからな』
『ほう? 確かにこいつは、髪色も瞳の色もサカの奴らとは全く異なる』
 検分するような目つきで眺め回される屈辱。ルトガーは怒りで肩を震わせた。
 だが次の瞬間、予想外の命令が下された。
『よし、そいつだけは別の場所へ移送しろ。他の者は……』
 意味ありげに言葉を切る。捕虜たちは騒然となった。
 自分だけが助かる――その事実に救われた心地など微塵もなく、「なぜ」という疑念と憤怒だけが交錯する。同族たちが次々と処刑されていく傍らで、自分だけが容姿のせいで選別され生かされるというのは、もともとこの容姿にサカの民としての乖離を覚えていたルトガーにとって、あまりに耐え難い屈辱だった。
 今すぐ情けを下した男に掴みかかり、撤回しろと拳を突き出したい。しかしそんな内心とは裏腹に、身体は言うことを聞かない。ずらりと居並ぶ屈強な兵士の姿に足が竦み、呼吸さえままならない。己の無力さを痛感させられながらも、心だけは決して折れることを拒絶していた。
「俺を助けたところでどうなるっ……殺せ!」
『無論そうだ。ただ……我等と同じ顔をした奴を殺す罪悪感から免れる程度にはなる』

 そう言われ、引き摺られるように連行された別のゲルの中、抵抗しようとする身体は槍の柄に打たれ冷たい床に投げ出された。
 手枷から伸びる鎖で身体を中心の柱に縛り付けても尚抵抗の意思を失わず睨み続ける彼を見て、引っ立て役の兵士が嘲笑った。
『ハッ――哀れなものよな。ベルンに生まれていれば良かったものを』

 ルトガーは何も応えず、兵が去ると暗がりに目を凝らした。
 遠くから聞こえる断末魔や、誇り高き祈りの声は徐々に薄れていき、やがて完全な静寂に取って代わった。



(中略)



 翌朝――ゲルの天井の隙間から光が差す頃。
 決死の救出に来た他部族の者により、捕らわれていたルトガーは辛くも血煙立ち込めるブルガルから脱出出来た。
 だが解放された喜びなど欠片も無かった。ただベルン人と同じ容姿のせいで生き延びた事実だけが、心に重くのしかかり続けるだけだった。

 それからルトガーは傭兵となって幾度となく死線を越え、数えきれないほどのベルン兵を斬って来たものの、未だに過去から解放されることは無い。常にあの日の記憶の中で囚われているのだ。

 今宵もまた冷たい星空に向かい呟く。

「……忘れない……あいつだけは……この手で……」

 声にならない声を風に乗せると同時に月影が翳り始めた。黒い雲が流れ空を覆い始める。
 薄闇が視界を奪う直前、一筋の銀糸が落ちてきて頬を濡らした。
 ――雨だ。
 微かな水滴が落ちて乾いた唇に触れた刹那、何処からともなく甲冑の擦れる音が響いてきた気がした。幻聴だとはわかっていても反射的に身体が反応してしまう。
 咄嗟に剣に手を掛け視線を巡らす。草むらが揺れると小さな獣の影が走った。
 敵襲ではないと知り重い息を吐く。しかしそれ位、どうしようもない程追い詰められている自分がいることも否定できないでいた。
「……杞憂か……」
 自分に言い聞かせるように呟き岩から立ち上がろうとしたその時である。背後の木の根が微かに軋む音がした。
「……誰だ」
 問いかけと同時に腰を捻り、右手で剣を握る。
 風切り音が低く響いた瞬間、大木の陰から大きな影が姿を見せた。

「ルトガー! 俺だ!」
 慌てた声と同時に両手を挙げる姿は月明かりに照らされると嫌でも目につく。同じくリキアのフェレ家に雇われた傭兵、ディークだった。
 逞しい筋肉質な上裸姿に申し訳程度の鎧をつけた、いかにも粗野な戦士といった風貌の短髪男は、この傭兵部隊のリーダーも務めている。全身に古傷が見られるこの男の、額には一際大きな傷が斜めに走っていた。
「……何の用だ」
 警戒を解かぬまま低く唸るルトガーに対し、ディークは肩をすくめた。
「お前の姿が見えなかったからな。雨も降ってきたし、そろそろ皆で宿に引き上げようかと思ってな」
 近づこうとするディークにルトガーは躊躇なく剣を抜くと、刃を向ける。
「寄るな」
「おお、怖いねぇ。いつも以上に険しい顔つきだな。近づく奴は依らば斬る、まるで殺人鬼だぜ?」
 揶揄するような口調にルトガーの眉間の皺が一層深くなる。
 無言の威圧が辺りの草花ごと押し潰すような重苦しさで漂う。それでもディークは臆する様子もなく、ひらりと手を振ってみせた。
「別に文句があるわけじゃねえ。お前は強いし、剣の腕は申し分ねえ。だが戦場じゃ、お前の殺気で敵はともかく味方まで怯んじまう。もっと力抜けよ」
「黙れ。ベルンの奴らは皆殺しだ」
 吐き捨てながらも視線は鋭利な刃物のようにディークの眉間を射抜く。紅いフードの隙間から覗く赤みを帯びたヘイゼル色の眼は、月光を受け不吉な光を放っていた。
 ディークはため息をつくと頭を掻いた。
「はぁ……しょうがねぇ奴だな。放っといたら俺にまで斬りかかってきそうで目が離せん」
 その呟きを聞きルトガーは冷笑した。
「よく言う。俺の剣、一太刀たりと受けたことがない癖に」
「おいおい。本気にすんなよな……」
 ディークが一旦言葉を切り、じっとルトガーを見据えた。剣を構える青年は普段と変わらぬ仏頂面だ。しかしどこか疲労の色も滲んでいるように見える。
 苛立ちか焦燥か――どちらにせよ過剰に負荷がかかっているのは明らかだった。
「まぁ、オレが言ったところで聞く耳持たんか。全く何を考えてるんだか……。だが……」
 月光に照らされるルトガーの横顔を見ながらディークはふと本心をこぼした。
「お前さん、黙ってりゃ綺麗な顔なのになぁ」
 その一言はあまりにも唐突で、毒気を抜かれる軽口だった。
 しかし――予期せずルトガーの心臓を激しく打った。
「…………何だと?」
 怒気を孕んだ低い声。だがディークはふっと笑って手を振りながら近付く。
「いやいや、変な意味じゃねえぞ。お前、俺らみたいな男衆よりよっぽど整った顔立ちだろ? だからそんな殺気むき出しにしねえでニコニコしてた方が……っておい!」
 ディークが言葉を終える前にルトガーは跳躍した。雑草と砂を蹴り飛ばしながら疾駆し、一瞬にして距離を詰める。勢いに任せ振り抜いた剣刃が月光を弾き残光を描いた。
「ふざけるのも大概にしろ!」
「おいっ! 待て! 本気か⁉」
 危うく頬を掠めた切っ先を紙一重で回避したディークが驚きつつも体勢を整える。背中の長剣を引き抜く暇も与えない素早さで次撃が飛ぶ。
 ルトガーの瞳に宿るのは純粋な怒りと苛立ちだった。その矛先はディーク個人に向けられたものなのか、あるいは過去の記憶に囚われた自分自身に対するものなのか――本人にも分からない。
「殺される覚悟はあるんだろうな」
「なぜそうなる! 落ち着けって!」
 ついに剣を抜いたディークとルトガーの周囲に金属音が幾度も響く。互いの得物が火花を散らし合い、草葉を裂いて土が舞った。
 ルトガーは一切の容赦なく打ち込む。
 その荒々しい剣捌きとは裏腹に目には悲壮感が混在しており、ディークには見慣れたはずの姿が別人のように映った。
「くそっ……頭冷やせよ、おい……!」
 防戦一方になっていたディークが一転、大剣を翻す。
 戦いの経験豊富なディークにとって、いかにルトガーがサカ出身の凄腕の剣士――とはいえ、今は怒りに任せて闇雲に剣を振るうだけの相手を剣でいなすのは造作もなかった。
 強引に鍔迫り合いに持ち込み、ルトガーの細い腕を隙をついてねじり上げる。
「いい加減にしろっ!」
「くっ! 離せっ……!」
 ギリギリと軋む骨の感触の後、ルトガーが歯を食いしばる音が聞こえた。だがそのせめぎ合いが限界を迎えた瞬間――突然の雷鳴とともに雨粒が激しく降り注ぎ始めた。
「!」
 二人の動きが止まり、互いに雨の音に耳を傾ける。
 雨足は急速に強くなり視界を遮るほどになった。雨粒が体を叩き、冷たく染み渡る。
「……ちっ……雨宿りするぞ! こっちだ」
 ディークが先に動いた。手近な巨木の枝陰に移動すると、漸く息をつく。
 遅れてついて来たルトガーの服は既に肌に張り付き、濡れそぼっていた。ディークは濡れた肌を流れる雨粒を払い落としながら言う。
「ったく……無茶な真似しやがって。こんな状態で戦ったら本当に怪我どころじゃ済まなくなるぞ」
「……」
 ルトガーは答えない。ただ俯いたまま雨に濡れる己の掌を見つめている。そこに血の痕は無く、ただ雨水が滲んでいただけだ。けれどルトガーにとっては絶えず滴る鮮血を想起させた。
 ディークは嘆息し、傍らに腰かける。
「……おい。何が気に食わなかったんだ?」
 しばらくの沈黙のあと、ルトガーは掠れた声で呟いた。
「……俺を哀れむな」
「は?」
「綺麗だとか整ってるだとか……笑わせるな。俺のこの顔がベルンに通ずると思われているのがどれだけ……腹立たしいか分かるか?」
 ベルン。忌むべき敵。
 かつて故郷を焼き尽くした兵たちと同じ特徴を有する容姿についてディークが触れたこと。それはルトガーにとって決定的な侮辱に等しかったのだ。
 雨音が強まり草むらが白く霞んでゆく。

 ディークは黙って空を仰ぎ見る。降りしきる雨粒は大地を穿ち、樹々を濡らし、己たちの心に積もる澱までも洗い流すかのようだった。
「なぁ……ルトガー」
「なんだ」
「……お前は悪くねぇよ」
「……」
「なるほどな、その顔でサカ出身って違和感があったが……それがお前の復讐の事情みてえだな?」
「詮索するな……」
「ああ、悪い悪い。だがお前が……苦しんでるのは良くわかる」
「………。」
「お前が故郷を滅ぼしたベルンへの復讐を誓うのは、間違いなく正当な戦う理由だ。俺はそれを止めねえ。だが……背負いすぎるなよ」
 ディークの言葉は雨のせいか妙に湿っぽかった。いつもの軽口とは異なる真摯さにルトガーは困惑する。しかしその胸中で湧き上がったのは安堵ではない。かえって苛立ちと不安が増幅していく。
「……お前にとやかく言われるつもりはない」
「分かってる。だがお前は独りで戦ってんじゃねぇ……少なくとも戦場では、俺はお前と同じ場所に居る」
 ディークの目はルトガーを捉え続けた。その瞳には確かな共感と信頼が宿っているように見えた。
「……ッ!」
 刹那、ルトガーの中で抑え続けてきた感情が爆発した。紅いフードを目深に被り直しディークから視線を逸らす。
「もう俺に構うな……!」
「お前が拒んでも、俺は仲間だぜ?」
「仲間? 笑わせるな! もう何人も死んだ! 俺を残して! それにあいつは……!」
 ルトガーが語気を荒らげた瞬間、濡れた木の葉を震わせながら吹き付けた突風が彼のフードを翻した。
 露わになった顔は怒りと悲しみの入り混じった激情に歪んでいる。
 その表情を見たディークは一瞬呆然とし――やがて自らの内側を掠めた感情に戸惑った。
(コイツの怒り……憎しみ……本当に何を抱えてやがる……?)
「ルトガー……」
 ディークが彼に手を伸ばしたその時。一際激しい雷鳴とともに一閃の稲妻が空を裂いた。
 轟音と光が辺り一面を覆い尽くす。
「うわっ⁉」
 視界が眩み二人は顔を覆う。
 その間にルトガーの姿は闇へと消えていった。
「……おい! どこに行く⁉」
 呼び止める暇もない。ただ雨と風だけが荒々しく通り過ぎていく。

 残されたディークは舌打ちをして地面を蹴る。
「ったく……どうしようもねえな」
 そう吐き捨てながらもその表情は険しくはない。むしろ……ほんの一瞬だけ垣間見たルトガーの素顔に想いを馳せていた。

「黙ってりゃ、本当……綺麗な顔なのにな……」

 再び呟かれた言葉は夜の闇に吸い込まれ消えていく。
 雨脚がさらに強くなる中……一人佇むディークの心中に芽生えた微かな疼きを、誰も知る由はない。


END


捕らわれたルトガーがどんな目にあったか知りたい方は本編をどうぞ(ゲスの極み)
サカでのびのび育ってた頃のルトガーが見たいよ私は~~~と、ディールト成立後のディークもきっと思う事でしょう…
畳む

#ディールト

浜辺の兄弟

💜烈火開始3年前くらいの頃のガイツ(19歳)×ギース(9歳)、腹違いの兄弟設定有、ほのぼの(…?)
💜ガイツ視点でガイツ→→→ギースな感じですが実際には両想いです


 夕陽が西の海原に沈むころ、砂浜には二つの影が並んでいた。一つは長く、もう一つはその半分ほどの長さしかない。
 十近くも年齢の離れた兄弟が、もう長いこと白砂にしゃがみこみ素手で海辺を漁っていた。

「ほら見ろガイツ兄ちゃん!この巻貝の色、すげー綺麗じゃね?」
 ギースが得意げに掲げる貝は、象牙色の表面に金色に近い黄色の縞模様が螺旋状に走っていた。
 まだ九つの癖に生意気に髪を背中まで伸ばし、馬の尻尾のように結っている――ガイツの腹違いの弟。
 父から買って貰ったばかりの高価な青いケープの裾は、すっかり砂にまみれていた。
「んー、そうかぁ?オレがさっき見つけた蜆貝の方がよく光ってたぜ」
 と、十九歳のガイツは弟に張り合うように言い放つ。
 年嵩の割に我ながら子供染みた態度だが、本当に子供のギースには丁度いいらしい。
 ちぇ、とまた別の砂山を掘り始めるギースとの貝殻比べを始めて小一時間は経過しただろうか。
 濃い紫の硬質な短髪を無造作に撫で付けたガイツの顔には疲れと苛立ちが混ざり始めていたが、腰を低くして弟の探索に付き合う姿はどこか優しげだった。
「もしかしたら海に沈んでた宝石があるかもしれねーぜ?コインとかも!」
 ガイツの気も知らず、砂を探る幼い弟は屈託なく笑った。髪色と同じ鮮やかな紫の瞳が夕焼けに反射し、螺鈿のようにきらきらと輝いている。

「……ったく、オレはもう飽きてきたぜ」
 溜息混じりにガイツは潮が引いた岩礁帯へ向かって歩み出した。足下に寄せては返す波が砂を濡らし、銀の網目模様を描いている。
「次はお前が見たいって言ってた夜光貝でも探そうぜ……確かあっちに洞窟があって――」
 話しかけた瞬間、あっ!と弾んだ声がした。振り返ると、ギースが掌に握りしめたものを見せつけるように走って近づいてくる。
「見て!兄ちゃん!これ……なんか古いコインみたいだけど――」
 小さな手にしかと握られた薄汚れた円盤は、表面に剣と獅子のレリーフが施されていた。細かい文字も彫られているようだが、海水を含んだ泥が溝にこびり付きほとんど読めない。
「ほー、マジだ……こんなコイン見たことねぇ」
 ガイツの好奇心に火がついた。思わず岩に膝をつき小さな手のひらに乗せられたコインを検める。
 弟とほぼ同じ目線になると、ギースの純真な瞳が顔をじっと覗き込んできて、一瞬ドキリとする。
「さっき落ちてた貝殻の側に埋まってた!なあ、何て書いてる!?兄ちゃん、読んでよ!」
 年相応の無邪気な声でせがむギースに、ガイツは不敵な笑みを浮かべる。
「よぉし貸してみろ。ここを……こうやって磨きゃ、きっと――」
 尻のポケットから手拭いを取り出し細かい砂を拭い取ると、表面の彫りが少しだけ浮き上がる。古い字形だが確かにゴールドと印されていた。更に砂を落とせばその錆びたコインに黄金色の輝きが隠れていたことが分かり、ギースの目が爛々と輝いた。
「うわっ!光った!やっぱ本物のコインだ!兄ちゃんスゲー!!」
 喜ぶ弟を見るとガイツの険しげな目が緩み、どんなもんだと自慢気に胸を張る。

 ミスル半島のはるか西方に点在する島で商業を営む父は事業拡大に躍起になり、ガイツが物心つく前から家を空けてばかり。勿論、母は間男ととうの昔に逃げて行った。
 独り残された広い屋敷で従者と過ごす、退屈で平坦な毎日。  
 ――そんな中、五年前に引き取られてきたこの歳離れた弟だけが、ガイツの唯一の清涼剤だった。

「へへ……嬉しいか?」
「もちろん!だって高く売れそうだし…あ、…待てよ、すぐ売らずに俺たちの家宝にした方がいいのか?」
 ガイツと髪や瞳の色以外はあまり似ていない弟ギースは、開拓途中の地である島国によく馴染む少年らしい快活さと同時に、確かな審美眼という名の計算高さを持っていた。頭が良く、父親譲りの商人の才覚が幼い顔に見え隠れしている。
 それが、少しだけ胸をざわつかせる。
「……そーだな」
 ギースはこの金のコインをどうするつもりだろう。エトルリアの宝飾店で真贋を鑑定して貰うか、それとも素直に父に渡して、その価値が分かる者に高く買い取って貰うのか?
 いずれにせよ、十にも満たない子供が拾ったコインに対して値打ちを追求している事実に、紛れもない親父の血を感じる。

「なあガイツ兄ちゃん」
 突然手を引かれ驚いて目をやると、すぐ近くに天使のようなあどけない笑顔があった。
「もっと見つけよう!宝石とか財宝とかさ!そしたら――あっ!」
 言葉の途中で濡れた岩縁に足を滑らせてよろめいたギースを咄嗟に抱き止める。
 華奢な身体から、潮の匂いに混じって花のような石鹸の香りがする。
「……っ危ねぇなまったく!」
「へへ……ごめん……ありがと」
 ガイツの太い腕の中で顔を上げた弟の瞳には、赤い夕陽が映り込んで揺らいでいた。
「兄ちゃんの手、でっかいなぁ……ね、このまま抱っこして?」
 その甘えた声には、子供ならではの純粋な願望が滲んでいる。
「は? 甘えんなよ、歩け歩け」
 即答した。弟の身体を言われるまま強く抱きしめたい衝動を抑え、平らな砂地に立たせる。
 別にそれぐらい承諾してやっても……と兄の顔をした自分は告げているのに、同時に胸の奥で抗い難い劣情が疼いているのを知る。禁じられた感情は、ふとした弾みで表出しかねない。

「ちぇっ!ガイツ兄ちゃんのケチ!筋肉ダルマ!ふんッ!その筋肉、ただの飾りかよ?」
「こらっ!どこでそんな口汚ねぇ言葉覚えやがった!船のヤツらか?!」
 咄嗟に怒りで額に青筋を浮かべ怒鳴るガイツに、さーね、とギースはそっぽを向いた。しかし表情は強かで、どこかガイツの反応を楽しんでいる素振りがある。
「でも兄ちゃんはさ……こうやってずーっと俺に付き合ってくれるから大好きなんだ! 他の大人は……金を出さないと誰も構ってくれねぇもん」
 それは真実だった。父は仕事ばかりで家庭を顧みず、使用人たちとも一線を画していた。
 五歳の時に母を病気で失い、多忙な父親の館に引き取られてきたギースにとっては、ガイツだけが心を許せる唯一無二の存在なのだ。
 奇しくも、孤独な兄と弟は惹かれ合い、その絆は生まれや歳の差を軽々と越え――もはや二人を固く繋いでいた。
「……そうか」
 沈む夕陽を見ながら呟く。
 そんなことは分かっていた。だが、この一線だけは決して越えてはいけないのだ。

 自制の気持ちとは裏腹に、大きな肩幅から落ちる紫色の影と弟の小さな影は重なって、一つになっていた。

「なあ兄ちゃん」
「何だ?」
「もしも……俺が大きくなって船乗りになるって言ったら反対する?」
 唐突な申し出だった。だが不思議と納得もいった。
 この少年は父と同じく、広大な海の世界に出ることに憧れを抱いているのをガイツは知っていた。父に誘われ、二人は幾度も商船での航海を経験していたからだ。……無論、今も立ち寄った商売先の港で暇を潰している最中なのだが。
「お前が……?」
 答えに窮しているとギースは続ける。
「今度父ちゃんがでっかい船買うって言ってたよね? その船、大きくなったら俺にくれって言おうと思ってんの。……それに乗って、俺は兄ちゃんと……一緒に海を巡ってお宝を探すんだ!」
 幼い夢の内容に思わず吹き出しつつ、商人として父の元で働く未来よりも、あくまで兄と共に冒険を選ぼうとする子供らしい選択に少しホッとする。
「ぶっ……お宝って……ギースお前、本当にそれでいいのか?」
「うん!だって、海って広いからさ!ぜったい海賊が隠した宝の地図とかあるし、俺、船に乗るとワクワクするもん!それに――」
 一度言葉を切り、満面の笑みで言った。
「兄ちゃんとずっと一緒にいられるじゃん?」
 その瞬間ガイツの心臓が大きく跳ねた。禁断の欲望が頭をもたげる。
 この可愛い弟をずっと手中に収めていたい。商会から離れる前に奪ってしまいたい――そんな衝動が胸を突き出る勢いで湧き上がってくる。

「……バーカ」

 自分でも驚く程低い声で返す。
 感情が溢れ出す寸前で、胸の奥深くの淵に沈めた。

「ガキが一丁前に何言ってんだ。オレは……もう大人だ。親父やお前とは違う生き方を選ぶに決まってんだろ」
 わざと冷たく言い放つと、ギースはえっ…と驚いて立ち尽くす。その無垢な瞳に陰りが刻まれるのが目に見えた。
 罪悪感が刃のように胸を裂く。
「……っ……、そっか……そうだよね」
 小さな拳を握りしめた弟の目に涙の膜が浮かぶ。だが強がりで誤魔化そうと、慌ててガイツから顔を背けた小さな背中が痛々しい。
「でもっ……大丈夫! 俺一人でも船乗れるし!」
 そう言いながら先程拾ったコインを握り締めると、海へ勢いよく放り投げた。
 パシャン、という小さな水音と共に、黄金色の輝きが夕陽に溶けて消えていく。
「あれ!?何やってんだ!さっきせっかく……」
 慌てる兄の声を背中に浴びながら、ギースは砂浜を駆け上がる。
「別にいいもん! 俺はひとりで、もっとすごいお宝を見つけてやるんだ! だから、あれはもう要らない!」
 その宣言にガイツは絶句した。
 幼い背中がどんどん遠く離れていく。長い紫の一つに結った癖毛が潮風になびくさまが、儚くも美しい。
「……ちくしょう……」
 思わず漏れた呟きは誰にも聞こえなかった。
 胸を引き裂くほどの切なさ。弟への愛情と、禁忌の恋慕が入り混じった感情が激しく渦を巻く。
(いずれ……こうやって離れてっちまうのか?)
 夕焼けに染まる海面を見つめながらガイツは考えた。いつか弟が本当に、帆船の上で自由自在に生きる姿を。そしてそれを遠くから眺めるだけの、何者にも成れない空っぽの自分を。
(ならオレは……あんな風にギースに捨てられちまう前に……いっそ……)

 遠く波の音が響く。父の商船の元へ駆けていったギースの姿は既に見えない。砂浜には二人の足跡だけが残されている。
 薄暗くなった浜辺でふと、我に返った。
「馬鹿野郎……迷子にでもなったらどうすんだ!」
 ガイツは僅かに光る波打ち際に踵を返し、急ぎギースを追った。短い針のような濃紫の髪が浜風に揺れる。
 胸の痛みは募るばかりで何も解決はしていない。だが、明日もまた飽きもせず、海を見たいとせがむギースと共にここへ来るだろう。
 ……何故か?ただひとつの明白な真実があるからだ。

(俺はあいつを愛している)

 その事実を痛い程受け止めながら、しかしあくまで兄弟間の情にすり替える。でなければ耐えられない。

「おい、ギース! 一人で町を歩くな!」
 そう言って小さな背中に簡単に追い付くと、手を引っ張りながらきつく握る。驚いて振り返ったギースの顔は、ガイツを認めると再び屈託のない笑顔を浮かべた。
「へへ……捕まっちゃった」
「おい、遊んでんじゃねーんだぞ?」
 そう言ってガイツも釣られて薄く笑う。
 ギースの小さな手から伝わる温もりを、船に戻るまでのほんの数分間だけ享受する。

 夕陽が完全に海に没する。
 寄り添い歩く二人の姿は夜の闇に溶け、港町の喧騒へと消えて行った。


END



ガイツとギースの生い立ち設定は、何から何まで私の好みを詰め込んでいます…作中で語られてないのを良いことにッ!
五歳差ぐらいでもいいかと思いながらも、背徳感を高めるため十歳差にしたw でもガイツ兄はああ見えて倫理と言う名の防波堤は持ってる男だ、多分。そしてギースの方がそのなけなしの理性をひょいっと飛び越えてきそう。
そんな関係であってくれ~~~(願)
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#ガイギス

クリエツ365同棲シリーズその2

♥️セラ村同棲開始後に二人で迎える朝。軽めの話。

柔らかな朝の光が小さな天窓から差し込み、乱れたベッドのシーツを明るく照らす。クリスは毛布に包まり、眠たげなまぶたを開いた。隣には、窓に向いて座るエッツェルの背中があった。
解いた赤髪を背中に流した彼は片膝を立てて、サイドテーブルの上に置かれた小さな木箱に手を伸ばしている。その細く長い指が優しく箱の蓋を開ける音が微かに響いた。

コトン……

蓋が開くと、銀色に輝く指輪が現れた。エッツェルはそれを手に取ると、右の人差し指へ慎重に滑らせる。指輪の中心に光る水色の石をなぞる親指が、まるで恋人を愛撫するように細やかに動く。

「……アーシェラ」

低い声が部屋に落ちた。風に揺れる蝋燭のような、穏やかでありながらどこか脆い響き。クリスは思わず息を殺した。
彼の眼差しは指輪を通して遠い過去へ向けられていた。窓からの光が彼の横顔を照らして、側面に深い陰影を作り出す。その影の中に、彼自身でも気づかないような哀しみが沈んでいた。
クリスの胸がチクリと痛み、半身にかかった毛布を握り締める。昨夜、この閨の中で二人で交わした熱い吐息、肌の温もり、全てが突然遠ざかるような錯覚に襲われる。
エッツェルが指輪越しに見つめているのは自分ではなく、もう二度と触れられない存在だという事――それは抗えない事実だった。

ふと、気配に気付いたのかエッツェルが振り返った。揺らめく深い紫の瞳が、ベッドに横たわるクリスを捉える。その視線に一瞬で嫉妬に震える心の内まで読まれてしまったようで、クリスの頬がほんのりと紅潮した。
「起きたのか」
エッツェルの声は、指輪に語りかけていた時とは違う、いつもの軽いトーンに戻っていた。
「朝からそんなに熱心に見つめるなよ…さては、昨日の余韻を引きずってるのか?」
皮肉っぽく口角が上がる。しかしクリスは笑えなかった。薄い毛布を掴む指に力が入る。
「……その指輪」
「うん?」
エッツェルはわざとらしく首を傾げた。
「ああ、女房にこうやって毎朝挨拶するのは習慣なんだ。……あいつには毎晩会うこともできないからな」
悪意はない。だが今のクリスにとっては残酷な言葉だった。クリスの喉が詰まる。なぜ、こんなにも苦しいのだろう? 昨夜はあんなに熱く、彼と睦んでいた筈なのに。
エッツェルはふっと短く息を吐くと、ベッドに横たわるクリスにゆっくりと向き直って身体を寄せた。指が白くなる程に握られていた毛布の端に軽く手を添える。
「そんな顔をするな…クリス」
低く柔らかい声が降り注ぐ。
「俺がまた、自らあいつの元へ向かうつもりとでも思ったか?」
「そんなことは…!」
クリスは起き上がろうとしたが、エッツェルの腕が素早く伸びるといきり立つ肩を宥めるように掴んだ。ベッドに押し戻され、シーツが小さく波打つ。
「うん?」
エッツェルは身を屈めると、肩口に鼻先が触れそうな距離まで顔を近づけていく。
「じゃあなんでそんなに怖い顔をしてるんだ? まるで……あいつにひどく嫉妬してるみたいじゃないか」
挑発的な紫の瞳が鋭く射抜く。図星すぎて、クリスは咄嗟に言葉が出なかった。エッツェルにとって、ただの間男に過ぎない自分の立場に悔しさと、説明できない欲求が混ざり合う。荒ぶる感情さえ整理できないまま、ただ一つ確かな欲望が燃え上がる――。
この目の前の男の心を、その指輪から奪ってしまいたい。今すぐ。
身体が勝手に動いていた。

ガツッ!

クリスの手がエッツェルの後頭部を強く鷲掴むと、そのまま勢いに任せて唇を押しつけた。歯と歯がぶつかる鈍い音。それはキスというより衝突だった。
驚きでわずかに開いたエッツェルの唇の間に、荒々しく舌をねじ込む。唾液が絡まり、湿った音が耳を焦がす。
「んっ……!」
エッツェルがかすかに呻いたが、逃げようとする素振りはなかった。むしろ、クリスの強引な衝動を受け入れるように、徐々に唇の隙間が広がる。呼吸を荒くしたクリスは勢いのままに、エッツェルの口内を貪った。彼の過去を飲み込むように。もう誰のものでもなくさせるために。

数秒が永遠のように過ぎた頃。ようやく唇が離れる。
エッツェルは荒く息を弾ませながら、自分のとった行動に呆然とした様子の青い髪の青年を見下ろした。そして、小さく吹き出す。
「……なんて傲慢な」
エッツェルの指が、濡れて赤くなったクリスの唇をそっと拭った。
「しかも力任せで下手くそだ」
言葉とは裏腹に、声には苦い笑みと、妙な安堵が混じっている。クリスは慌てて言い訳を探したが、何も出てこない。代わりに、恥ずかしさと後悔が一気に押し寄せ、思わずエッツェルから顔を背けた。
「……忘れてください」
掠れた声が震える。
「本当に、すみません、俺っ……」
エッツェルは遮るように、銀の指輪が光る指先でクリスの額を軽く弾いた。
「バカ」
それだけ言うと、再びベッドから立ち上がった。右手を軽く振る。
「顔洗ってくる。お前もそろそろ目を覚ました方がいいぞ。ヤギ小屋に行く時間だろ?」
ドアの向こうへ消えるエッツェルの背中を、クリスはただ黙って見送ることしかできなかった。
彼の唇の感触と甘いハーブの残り香だけが、静かな部屋に残されていた。窓の外では朝日が優しく輝いている。

今日もまた、二人の時間がゆっくりと流れ始めるのだった。


続く


クリエツ同棲シリーズ、身体の関係がデキてからクリスは故アーシェラさんに一層嫉妬しまくればいい。エッツェルはそれを知りつつ、ちょっと楽しんでる節もある?悪い男だ…
この純粋な青年を翻弄する未亡人を落としていこうぜ、クリスよ😏
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#クリエツ #365スローライフ

紅い黒猫の誘惑①

♥️ゲームクリア後、セラ村でいちゃついて過ごす二人。
♥️エッツェル(居候状態)とだいぶ気安い雰囲気になったが、まだプロポーズに踏み切れないクリスを試すべく、あの手この手で夜な夜な気を引くエッツェル
♥️頭を空にしてお楽しみください#クリエツ #365スローライフ
18歳以上ですか?

sleepover 第二話 渋谷でデート編

弥代と原宿デート後、弥代の家に泊まってイチャイチャの流れ
告白まで、セックスなし

「……ここは……?」
目を開けると、そこは暗闇に覆われた神殿――舞台装置が何らかのアクシデントにより停電したのかと、弥代は初めそう思った。だが、暗雲立ち込める頭上には細い稲光が走り、禍々しい冷たい空気が肌を舐めていく感覚に、そこは今まで居た舞台ではないと察知する。
ふと、誰かの悲鳴が聞こえた。舞台の中央に聳える黒い祭壇の方からだ。
「父さん!?」
そこに立つ父の姿を認め、弥代は駆け出す。父がすぐ側に居る、これで大丈夫だと感じた期待は、すぐに懸念に変わる。
「父……さん……?」
高らかにオペラを歌い続ける父の周りをどす黒い靄が包み、純白のはずだったタキシードは墨を落としたように黒く染まっている。その顔にも奇怪な紋様が浮かび……まるで異形の姿となって歌う父の姿に気付いた弥代は、祭壇の階段下で思わず踏みとどまった。
また悲鳴。ふと見上げれば、父の正面には先程まで舞台を鑑賞していた沢山の観客たちが、意思を失った土器色の顔をして立ち並んでいた。その周囲を取り囲むように楽士隊――ではなく、赤黒いローブに身を包んだ異形の者が、不協和音のような音を響かせながら揃って黒い祭壇へ祈りを捧げている。傍目に不気味がすぎる光景に、弥代は言葉を失った。
このままではいけない、父を正気に戻さねば――そう願うも、弥代の思考は想いに反して徐々に黒い靄がかかり、握り締めた手も足も気付けば動かせなくなっていた。
本来ならば、この時父の側へ躊躇なく駆け出した弥代を神竜の姿のチキが救ってくれたのだが――
ああ、そうか……と弥代は色の違う瞳を細めた。
やがて、身動きできないままただ立ち竦んでいる己に気付いたのだろう父が、他の観客達へしていたのと同様に弥代の頭上へ手を翳す。その険しい顔の後ろで、邪悪な笑みを浮かべる老人――ガーネフが、血のように赤い舌をつり上げた口角から覗かせ、何やら興奮気味に呟く。
『これは――素晴らしいパフォーマの輝きだ……これさえあればあのお方の復活も容易い――! さあ、全て吸い尽くせ――』
父さん、と叫ぶ声は父に届かない。父の手から放たれた暗黒の波が目の前を覆うと、身体全体が禍々しい魔道の力によって締め上げられるように軋む。苦しい。怖い。

「嫌だ、父さん――父さん!!」

――また、あの夢か……
闇の帳が未だ落ちたままの部屋で、悲鳴と共に目覚めた弥代は重い溜息を吐いた。
以前、蒼井樹の家で宿泊してから――しばらくの間、弥代は安穏な眠りを得ていた。だが、ミラージュ達を現代に招いた黒幕であるガーネフの存在、依り代である畑中ヤツフサとの対峙以来、己の怒りが、父を喪った悲しみの記憶がそうさせるのだろうか、どす黒い闇の儀式に迷い混む悪夢に、弥代はまた苛まれていた。
宿敵を前に何も出来ないと嘆く弥代の想いを受け、父の魂の輝きは樹が導いた弥代のパフォーマの力によってついに元凶の手から離れ、天へ導かれたというのに……。
未だにこのようなまやかしの過去の夢に魘されている様では父に向ける顔もないと、弥代は汗で額に張り付いた長い前髪を忌々しげにかき上げた。
思考を切り替えるため、眠る前より重くなった身体を起こしてシャワールームへ向かう。脱衣所に着くなり黒い寝間着を脱ぎ捨て、バルブをひねれば、冷水がザァと弥代の身体を覆った。
「………。」
染み渡る水はやがて暖かい湯となって冷え固まった弥代の身を緩めていく。
ふぅと一息つき、背後のバスチェアに崩折れるように座して前を見れば、縦長の全身鏡には眼の周りを暗く窪ませた自らの姿が浮かび出されていた。血の気のない白い肌に、虚ろな瞳を幾筋もの目蓋の皺が縁取り、濡れて束になった長い下睫毛からまるで暴?の如く水滴が流れている。あまり見ていたいと思えない己の無様な姿に、弥代は目を瞑った。
――瞑想は、心を整えるための最高の手段だ――と、記憶の中の父がいつか言っていた。
一切の思考を止めて、ただその場の感覚に身を委ねる。
サァ……と浴室に降り続くシャワーが大理石の床に落ち、排水溝へと向かって流れゆく。湿気の多い湯気に包まれたその空間は、弥代の呼気を幾分か楽にした。暖かなぬるま湯が石床に散らばり、足先を濡らしている。
暖かい……。
ふと、弥代は暖かさの中に樹と過ごした日のことを思い出していた。あの時もこんな風に、樹の家でシャワーを浴びて、暖かい夕餉を馳走になって、共に眠り、そして――。
あの日、樹の手のひらが触れた箇所を思い出すように自らの手でなぞっていく。頭、髪、背中、肩口、そして。
身体の中心に燻るようにじわりとした熱が生まれるのを感じる。弥代はそっと、樹が触れたのと同じように固さを持ち始めた性器へ手を伸ばした。
「ッ………」
血の通ったそこは思いのほか硬く、熱を帯びていた。丸い先端を覆うように優しく握って、括れたところに指を回し掛けて、擦る。
「あ………」
心地良い刺激を感じ、不意に濡れた唇から吐息混じりの声を出して、それが硝子に囲まれた空間に微かに反響する。
勿論、ここは弥代が一人で住んでいる高層マンションの一角で、ここには弥代しかいないことが明白であっても――弥代は、あの時と同じように、声が外へ漏れないように口を手で覆った。
薄目を開けて周りを伺えば、正面の鏡には長い脚を左右に割って自慰にふける姿が写っている。浅ましいと思いながらも、沸き上がる欲求に手は止まらなかった。
「ン、……く………」
弥代は、ひたすらにあの暖かい手の感触を思い出し、その記憶に沿って手を動かし、快楽を追った。だが、どうしても同じ具合にはいかない。あの時はもっと、痺れるような……ただ剣呑な摩擦で得られるだけではない、何かがあった。
睫毛を伏せ、もう一度樹の顔を思い浮かべる。
あの青みがかった団栗瞳が、躊躇いがちにこちらを見詰めている。早まる呼吸、紅潮した頬……。
高ぶった自身がずくりと脈打つ。
出していいよ……と樹の声が聞こえた気がした。
「……ァ………、ッ――――」
ビクッと弥代は背を弓なりに反らすと、熱い白濁液を手の中に放った。二、三大きく身を震わせれば、脚の下の黒い大理石にも白い筋が飛んだ。
ハァ……ハァ……と乱れた呼吸がガラスで囲まれた浴室に幾度か響いていたが、その後の熱の引きは早かった。
こんなに呆気ないものだっただろうかと疑問に思う弥代へ次に襲ってきたのは、強烈な睡魔だった。今なら、何も考えずに眠れるかもしれない。
弥代は汚れた手や下肢を洗い流すと、湯を止め、シャワーブースを後にした。
脱衣所で脱け殻のように落ちたままだったシルクのパジャマを一掴みにしてがさりと洗濯籠へ放り込み、その手で棚上にきっちりと畳まれて置かれているバスタオルですっぽりと身を包む。それから本能の赴くまま寝室へ戻ると、チェアに無造作に架けてあったバスローブへ腕を通し、所々皺が寄った紺のシーツの上に落ちていた黒いナイトキャップを湿った髪の上に被ると、どさりと広いベッドに身を横たえた。
転がっていた枕を手繰り頬を擦り寄せながら、抗えない睡魔に押し潰されるように弥代は眠った。

暗転――

再び弥代が瞳を開けたときは、濃色のカーテンの隙間から白い朝日が仄かにチラついていた。
ぼうっとする頭の中で弥代が思ったのは、もう一度樹と触れ合いたいという衝動に似た感情だった。
蒼井樹を家に呼ぶ。以前別れる時に樹にその意思があることを告げたのを思い出す。あとは体の良い切っ掛けを作れば良いだけだ。が――。
(そうだな……)
さて、どうするかと、まるで幼い子供に返ったような無邪気で純粋な期待を覚えながら、弥代は樹を自室へ招くべくベッドの中で策を練った。



「原宿で食レポの腕を磨きたい?」
弥代からのTOPICに呼ばれ事務所へ向かった樹は、ローソファで足組みをして座る弥代からそう告げられた。
「食レポって……この前のレンチンでもう俺より良い感じに出来るようになってたじゃないか」
「原宿で今話題のメニューがあると聞いた」
「うっ、あ、あれか……」
「知っているのか」
「あ、ああ、まあ」
「ならば話は早い 行くぞ」
「分かったよ」
返答を訊くなり週末にスケジュールを取り付けると、弥代は風のように去っていった。
あのゲテモノメニューに心当たりのある樹は心中穏やかではなかったが、弥代に食レポを開眼させた身としては仕方ないかと、変な責任を感じていた。

そして当日――
人でごった返す昼下がりの原宿駅前、一応スイーツが目当てなのでその時間に合わせ、学校から一旦家に帰って私服に着替えてきた樹が弥代を探す。
周りの人々よりも頭ひとつ背の高いすらっとしたモデル体型の男……居た。
「ヤシロ……そのスーツで行くのか?」
いつもの紫のスーツ姿で佇んでいた弥代と、この原宿の浮かれた原色の景色とのギャップがすごい。
「何かおかしいか?」
「ううん、いや、ここ原宿だし堅いかなって……」
「……そうか」
目的のクレープ屋へ二人は肩を並べて歩き出しつつ、樹の言葉を聴いてふむと顎下に手を当てた弥代は、周囲の店を興味深く見回し始めた。
「少し待っていろ」
「え?」
その中の一つに目星をつけたのか、弥代はストリートファッションを扱う衣料品店に入っていった。言われた通りその店にディスプレイされている奇抜な原宿ウェアを眺めながら待っていると、数分後、全く同じ様な服に身を包んだ弥代が現れて面喰らう。
「ヤシロ!?え、その服」
「これでこの場に相応しいか?」
訊けば、ディスプレイに飾られていたマネキンの衣装をそのまんま上から下まで装飾品に至るまで購入してきたらしい。そう言えば弥代が店を出てくるとき、背後で店員が笑顔で見送っていたな……。
カラフルなネオンカラーのラインが入った黒いブルゾンを羽織り、薄紫から濃紫のグラデーションに染められた麻のシャツの下は、黒のひらひらとした布がアシンメトリーに揺れる長いスカート。ちらりと覗く長い脚にはタイダイ柄のスパッツを履き、足首に銀のアンクレットを輝かせ、靴は黒い鼻緒のビーチサンダル……。
至って普通のジャケットにチノパンの出で立ちの樹の横で、結果として別の意味で物凄く違和感が生まれてしまっているが、当の弥代は満足そうにしている。
「うん……似合ってるよ」
それでも様になってしまうのはさすが一流芸能人の成せる技なのだろうか。
気を取り直して、目的のクレープ・ディアへ再び二人は歩き始めた。

「……何だ?あれは……UFOか」
クレープを食べながら口の中に残り続けるスルメとの格闘をやっと終えると、今度はデミナンバーガー屋の新メニューを目当てに歩く途中、きらびやかな電光と電子音に集まる人だかりに目を向けた弥代がふと立ち止まった。
「ああ、クレーンゲームだよ」
「ゲーム?」
「ゲームセンター、行ったことないのか?」
無い、と云う弥代に、じゃあせっかくだしと樹が店の入り口に並んでいるゲームの筐体前へ誘う。
「あのぶら下がってる爪で中の景品を掴んで取るんだ」
「ほう」
弥代は興味深そうに、じい、と他の客がプレイしている様子を眺めていた。丸い円盤から伸びた三本爪ががっしりと目当てのぬいぐるみを掴み、持ち上げ……たところで、ごろんと元の位置に落下した。
「やってみるか?」
「ふむ」
とりあえずワンクレジットを入れて、弥代にクレーンの操作方法を教える。
「そうそう、その調子」
先程の客と同じく爪は上手く景品を捕えたが、持ち上げるタイミングで同じように真下へ落ちた。
「簡単……ではないな、何かコツがあるのか」
「うーん、しっかり挟めるところを見極めるしかないんじゃないかな」
アドバイスを受け、左右のアクリルケースごしに中を見たりしてチャレンジするも結果は同じ。ややムスっとした顔で弥代は樹を見る。
「お前もやってみろ」
「え? わ、分かった」
選手交代で台の前に立った樹がボタンを押す。ピロピロ…と動くUFO。
「……ここだ!」
パッ、とタイミング良く樹がボタンから手を離すと、グイーンと開いた三本爪が下りていく。その様子を横で食い入るように見つめる弥代。閉じゆく爪は上手くぬいぐるみの胴体の隙間に滑り込み、バランス良く空中に持ち上がる。そして……
ガコン、と大きなぬいぐるみがファンファーレ音と共に穴へ落ちた。
すごーい!といつの間にか樹と弥代の周囲に集まっていたらしき数人のギャラリーから歓声が上がる。ファンファーレを聞き付けたのか、おめでとうございまーす!とゲームセンターの店員も景品を入れるための大きな袋を手にやって来た。
「……なるほど、そこで離すのか……良い手本だった」
「いや、まぐれだよ、まぐれ……ところでこれ……」
取り出し口から出てきた青いリボンを首に巻いたかわいらしい熊のぬいぐるみをどうするか、荷物になってしまったと思いつつ――
「ヤシロ、いる?」
「いいのか」
こういうの、趣味じゃないかもしれないけど……と言いかけ、ビニールのナップサックに入った戦利品の熊を肩にかけて満更でもなさそうな弥代を見て、まあ良いかと樹も微笑んだ。

「はあ、もう結構お腹いっぱいだな……」
あれから目当てのメニューその二、からし納豆ヨーグルトバーガーを食した二人は、口直しと休憩を兼ねて渋谷のセイレーンで野菜と豆のバゲットサンドを齧っていた。最も、弥代は納豆味のハンバーガーに対して満足そうにエクセレントと呟いていたが――
「俺の食レポ、参考になった?まあ、ヤシロは自分で十分満足いきそうなレポできてるみたいだったけど……」
「いや――まだだ」
「は?」
「ここのカフェでも新しいメニューが出ているらしいじゃないか、確かワインケーキ……?」
ああ、あれのことか……と謀らずも考案に一役買った樹が項垂れつつ遠い目をする。
「でもそろそろ夕食の時間だし……どうする」
「俺はまだ納得していない、蒼井樹、このまま俺の家に来い」
「え、弥代の家に!?」
「ああ、テイクアウトして腹が落ち着き次第続きをするぞ」
「い……良いのか?」
「無論だ お前こそ、俺を満足させる食レポが出来るまで今日は帰さんからな」
「はは、またそれか…… 分かった、明日休みだし……受けて立つよ」

カフェの目ぼしいメニューと、ついでにラーメンをテイクアウトした二人は、銀座にあるという弥代宅へ向かった。
道中、樹はTOPICで今日は弥代の家に泊まるということを親に連絡したところ、あっさり承諾を得る。
銀座――と聞いて薄々気付いていたが、高級ブランドと思わしき店が立ち並ぶスタイリッシュな街並みを抜ければ、弥代の行く先には高級タワーマンションが聳え立っていた。
その一つ、まるでホテルのような佇まいのロビーに入ると弥代は何食わぬ顔でコンシェルジュの見守る中オートロックを解錠し、奥にある高階層専用エレベーターで当然のように最上階へ上がる。
ここ、家賃は一体幾らなんだろう、そもそも一人で住んでいるんだよな……。いや、弥代ってまだ未成年だけど……こんなところに住めるものなのか――?と、次から次へ疑問が湧いてくるが、着いた先のフロア全てが俺の家だと告げ、鉄柵のついた玄関扉が開かれた先、玄関を抜けて現れただだっ広いリビングに通されたところで、樹は考えるのを止めた。
「ラーメンは先に食べておくか?」
「う、うん、麺伸びるしな……」
そう言いつつも正直、最上階の窓から眼下に東京湾までを見渡せる夕焼けの景色だけでお腹いっぱいだった。

「食べたな……」
「そうか では腹ごなしに下のジムで運動するか?」
「いやいや、さすがに疲れたよ……」
「ならば湯を沸かしてくる」
「あ、ありがとう」
そう言ってリビングから姿を消した弥代のバイタリティの高さを感じつつ、樹は目の前の机に散らかっている空の容器をビニール袋に詰めて片付けた。しばらくして戻ってきた弥代に案内されるままついていくと、これまた高級ホテルのような大きな洗面台を備えた広い脱衣室と、続きにガラス張りの風呂――スタイリッシュな黒い大理石が敷かれた――があった。棚にはリネン類と、この間弥代に貸した樹のルームウェアがきっちりと畳まれた状態で藤製の脱衣籠と共に置かれている。
本当に、住む世界が違うなと思いながらも、樹はおずおずと服を脱ぐとガラス戸をくぐった。
シャワーを浴びていると、ふと、すぐ隣の脱衣場に弥代の姿が見える。一瞬ぎょっとするが、まあ男同士だし、そもそもここは弥代の家だし……と思ったところで、その場で普通に服を脱いで全裸で風呂内へ入ってきた弥代に樹は面食らった。
「えっ、ヤシロ……!」
「どうした? ここを捻れば止まるぞ」
「いやそうじゃなくて……!!」
慌てる樹に眼前の弥代は疑問の表情を浮かべている。
「俺が入ってはまずかったか?」
「……う、あ、いや……びっくりしただけ」
そうか、と元の何食わぬ顔に戻った弥代は樹の手にあるシャワーヘッドへ手を伸ばす。促されるまま手渡すと、壁の固定具にセットして頭から湯を浴び始める。
シャンプー、リンス、コンディショナー、そしてボディソープとフェイシャル類…カウンターの上にきちんと並んでいて、そういうところはさすが芸能人、しっかりしてるんだな……と少し感心しつつ――正直パッと見ただけでは違いがよく分からなかったが、弥代が使っている様子を見ながら同じように使わせてもらう。手に出したそれらはびっくりするほど上質で繊細な花の良い香りがして、こうやって一流芸能人は作られてるんだなと洗髪を終えて長い前髪を後ろに流した弥代を背後から見る。
細身の身体にしっかりと筋肉の隆起があって、まさに男の理想みたいな身体に、やけに白い肌色と細っこい腰が女性的というか……あと脚が長い。背も高いから必然的にそうなるんだろうか、いやそれにしても長い……と至って標準体験の枠にいる自分の体型と見比べてしまう。あとは……。
脚を眺めていたところでくるりと弥代が樹の方に身体を向けたので、まともに前側を見てしまう。一瞬、え、と驚いて凝視してしまったが――そこにあるはずの毛……陰毛が見当たらない。この前ベッドの上で弥代のモノを握って慰めた時に存在感がないなと思っていたが、まさか全く生えてないとは思ってもいなかった。
「何だ」
「あ、ごめん……ヤシロってそういう体質?なのか……?」
「体質?」
「その……下の毛、生えてないからびっくりして」
「ああ……必要ないからな 処理している」
「そうなのか……すごいな」
すごいと言えば……やっぱりすごく、自分のモノと比べて……大きい。性器が。
地の肌色が白いから余計にそう思うのかもしれないが、とりあえず羨ましいと思ってしまう。
「そんなに俺の身体に興味があるのか?や
「えっ、あっ、ごめん、つい見ちゃって」
「見たければいくらでも魅せてやろう」
「そういう事じゃなくて……!」
怒っているのかからかっているのか何なのか、よく分からないがとにかく弥代が自信たっぷりに樹の正面に仁王立ちするので、いよいよ目のやり場に困ってしまう。
「ちょ、ちょっとトイレ行きたくなってきたから一旦出ていいか?」
「ああ、すぐ向かいにあるぞ」
これ以上弥代の裸を見ていると変な気分になりそうだったので、樹は慌ててトイレへ逃げた。

再びシャワーブースに戻ると既に弥代の姿はなく、後を追うべくザッと身体を洗い終えた樹がリビングへ戻ると、白いバスローブ姿でゆったりと長いソファに腰掛ける弥代が居た。
「お待たせ」
ああ、と振り向いた弥代の手にはカフェでテイクアウトしてきたドリンクが握られている。
「それ、味……どう?」
「………紫蘇の爽やかな風味の中に唐辛子のエキスがまるで火花を散らすような刺激的なアクセントをきかせている――これは、口の中で繰り広げられる決闘……!」
「さすがだな……よし俺も――」
と意気込んだところで、机に残っているのがあのわさびケーキだというのを思い出して樹はやや後悔した。

熱の入った食レポ大会の後、弥代が次に出演するというマスカレイダー雷牙のシリーズBlu-rayを鑑賞しているうちに、すっかり時刻はあと一時間で日が変わる位になっていた。
流石に目がショボショボするなと擦っていると、そろそろ寝るかと弥代から声がかかる。
「うん……」
洗面所へ立った弥代と並んで歯磨きをする。口を濯いで、白いバスローブから濃紺の寝間着に着替えた弥代についていくと、寝室に通された。
中央に大きなベッドが置かれ、天井の間接照明が上質なムードを醸しつつ、奥に引かれた長い黒のカーテンがシックな部屋。
「ここは……弥代がいつも寝てる部屋なのか?」
「ああ」
「じゃあ俺はさっきのソファでいいよ」
「何故だ」
遠慮がちにそう告げる樹の手首を弥代が引く。
「俺は――また樹と同衾したい」
「え」
「最近――また良く眠れない――だが、お前となら……上手く眠れる気がするのだ」
樹を見据えてそう告白する弥代の思いを無碍には出来ないと察知した樹は、分かったとベッドへ上がった。
とにかく広いそのベッドは、樹と弥代が並んで横になってもまだ左右にゆとりがある。
……にも関わらず、弥代は樹の肩口にすり寄るように身を横たえてきた。
絹糸のように細い弥代の髪から、良い匂いがする。
それを言うと樹も心地良い香りがすると言ってますます頭を寄せ、すう、と頬に弥代の吐息がかかる。
「ヤシロ、ちょっと……近くないか」
慌てて顔を離した樹に、俺に触れられるのは嫌なのかと眉を下げた弥代の悲しそうな声が返ってくる。
「そんなことないよ……でも……!」
同じベッドで、肩を寄せあって、このままだとまた以前のように友達の一線を超えてしまうのでは、と樹は危惧していた。
「俺は構わない」
「ヤシロ………」
「イツキと……ずっとこうしていたい」
弥代の白い頬が仄かに赤く上気しているのはさっき飲んだ紊敏ソトウのせいだろうか、それとも……と思案する樹をよそに、伸ばされた弥代の手が樹の肩を引き寄せ、薄い寝間着越しに二人は肌を触れ合わせる。
血の通わないようにクールな表情の弥代がこんなにも熱く火照った身体をしているのに気付いて、樹も段々と鼓動が早くなるのを感じていた。
「お前が以前、俺の……性器に触れてから、時折――俺の中に制御できない熱が燻るようになった」
どうすればいい、と訊く弥代の下半身は既に絹の寝間着を押し上げて、樹の腿に押し付けられていた。その昂りを、あやすように撫でる。
「分かった……責任は、取るよ」
改めて弥代に向き直ると、樹は弥代のパジャマのズボンと下着とを下げる。布地の中から勢い良く飛び出てきた熱い肉棒を優しく握ると、弥代も軽く脚を開いて樹に身を預けた。
ややしっとりとした感触のそれを、括れに指を巻いて上下に扱く。
「……ぅ、ア………」
しゅるしゅると滑らかな手の動きに、弥代は低く呻きながら樹へ身を預けるように寄せてしなだれかかっていた。熱い吐息がかかる距離で、樹はじっと弥代を見つめる。
「気持ちいい……?」
問いに、首を縦に振って応える弥代もまた、眉根を潜めつつ樹が手にした己の肉棒を規則的に握り扱く様を見ていた。
ハァ、ハァと息を上げる弥代に、無機質だったはずのベッドルームは徐々に空気を変えて、暖色の光に照らされた灰色のシーツの上で濃密な空間を演出していた。
弥代がガクガクと腰を揺らし始めたのを認めて、イきそうなんだなと察する。
「出して良いよ……」
「――ーッ!……ァ、――ーッッ!」
その声を合図に、樹の手の中で弥代が達した。前と同じように呆気ないくらいに素直に、白く濁った快楽を吐き出した弥代がひとつ、大きく息を吐く。
「俺ばかりでは……対等ではない……」
「えっ?」
「お前にも俺と同じように――気持ち良くなって欲しい」
「い、良いのか? じゃあ……」
提案を受けて弥代に愛撫してもらうべく、樹もルームウェアの前を寛げてペニスを取り出す。
「っ……あんまり見ないでくれ……」
樹はそう言うが、弥代は興味を抑えきれずどんどんペニスへ顔を近づけていく。
「あ、もう……出そう、だからっ……ヤシロ……!」
「……構わん」
「ウッ、ァ、――ーッ!」
やがて射精した樹の精液が勢いよく弥代の顔に散らばっていく。やってしまったと、平常心を取り戻した樹が慌てて弥代を伺うが、口の端に垂れた一筋のそれを舐めた弥代は、エクセレント……と呟いて恍惚の表情をしている。
「いや、不味いだろ……!」
食レポし始める弥代にツッコミつつ、慌ててティッシュを探す。
「……綺麗にしてやろう」
と、弥代は今まで握っていた樹のペニスをついに口に入れてしまった。
「うわっ!だ、駄目だっ!!」
ぬめる熱い舌の感触に驚愕して、樹は腰を引いて弥代から逃れた。
「………何故だ?」
面と向かって樹に駄目だと止められたせいか、弥代は眉を下げている。
「そういうのは……ちゃんとしてからにしよう」
「ちゃんと?何だ?」
「こ、恋人同士……じゃないと……」
「ならば俺を樹の恋人にしてくれ」
「!??」
言った弥代もその言葉の意味が分かっているのか分かっていないのか、判断できない
「――弥代を、俺の恋人に……?」
「今すぐにとは言わない、考える時間が必要ならば待つ」
「分かった……」
 突然の弥代の告白に胸がざわめく。と同時に、感じたことの無い高らかな心地がした。それは例えるなら、微かな期待に近い。弥代が本当に、自分を求めてくれているのだということ。本来なら手の届かないような、出会うことすら無かった彼がいま、もうこんなにも樹に近いところまで心を寄せているという、事実に。
 乱れた寝間着を直して消灯した後も、樹はそんなことを考えていた。愚直なほど純粋に自らを律し、常に芸能のことだけに目を向けていた弥代が、唯一心を開いて歩み寄ろうとした切っ掛けが自分であることは明白である。
 だが、それは本当にこんな短期間で恋人になりたいと思うほどの好意となり得るのだろうか? 友人としての親愛を、性欲処理をし合うという友人の枠を越えた行為によって、弥代が恋愛とはき違えている可能性はないのだろうか?
 悶々とした思いを巡らせる樹を余所に、すぐに寝てしまった弥代の綺麗な横顔を見ながら、樹もやがて目を閉じる。
 樹自身、このまま弥代を恋人という特別な存在にしたい気持ちと、それが本当に自分で良いのかという戸惑いがあった。

(あれ……? もう朝なのか……?)
 気付けばふかふかのベッドの心地良さに負けたのか、すっかり寝入っていた樹は横にいたはずの弥代の姿が無いことに気付く。
 微かに聞こえる鳥の声、やっと完全に覚醒した樹がそろそろとリビングへ向かうと、パンの焼ける良い香りが鼻腔をくすぐった。
 リビングの続きにあるダイニングキッチンにあるカンターを挟んだところに、パリッと糊のきいた白シャツにカフェエプロンを巻いた姿の弥代が立って調理をしている。
「起きたか」
「あ、ああ……ヤシロは? 眠れたか?」
「うむ」
 短く応える弥代の手に握るフライパンから、黄金色の卵の塊が跳ねる。朝食だ、座れと促す弥代に言われるままダイニングへ腰掛けると、焼きたてのオムレツにサラダボウル、一口大に切ったバケットが並ぶ。それら全てを弥代が作ったことに、樹は驚いてぽかんと口を開けた。
「すごいな、ヤシロ……」
 誉める樹に、卵一つとっても火加減が難しい、まだまだだと弥代は言って、黙々と調理器具を洗っていた。洗い終えると、樹の向かいに腰掛け、ブラックコーヒーを傾ける。
「味はどうだ?」
「ふわっふわな卵に溶けたバターの風味が香しい、なんてリッチなオムレツ……皆が憧れる高嶺の花を俺は今、食している……そんな幸せを噛み締めてるよ」
「ふむ、まずまずといったところか」
 柔らかく微笑むと、テーブル横に置いていた台本と思われる本をパラパラとめくり、いつもの無表情な顔をしている弥代を横目に、樹は出された朝食を平らげた。
「……今日も仕事?」
「無論だ。お前のおかげで昨夜は睡眠がよく取れて調子が良い。この機会を逃すはずがないだろう」
「はは、それは何より」
 これ以上この家に居ても弥代の邪魔にしかならないと感じた樹は、支度を済ませたら帰宅する旨を伝えた。
「……今度、ダンスのステップを見てやろう。お前もエンタキングダムのフェスへ可能な限り出演し、研鑽を積むべきだ」
「ああ、その時は頼むよ」
 エントランスに降り、樹を見送る弥代が不適に微笑む。昨夜とは打って変わってすっかり元の調子を取り戻し、さらに樹に微笑みかける弥代の姿を見られたことが樹も嬉しかった。今夜はまた、大東テレビでミュージカルフェスの演目に出演するという……。
 こんなに芸能にひたむきな弥代が、昨夜の言葉を冗談で言ったとは思えない――。
 そう確信した樹もまた、弥代と恋人として付き合うかどうかを真剣に考えることにした。

 眩しく照り注ぐ朝の光が目にしみる。
 青い空に残る薄雲の中には、まだ白い月が浮かんでいた。



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#イツヤシ #sleepover

sleepover 第一話 樹の家にお泊まり編

イツヤシお泊まりシリーズその1
まだ友達以上恋人未満なイツヤシ


 ガタン――ゴトン――

 規則正しい車体の揺れを感じながら、弥代は電車の乗降口近くの壁際に身を寄せて佇んでいた。スタイリッシュな銀のアタッシュケースを携え、いつもの紫スーツに黒の革靴の出で立ち。縦長の窓からは薄雲に被る夕日がじんわりと差し、伏せた長い睫毛の影を白い頬に落としている。それはこんな帰宅ラッシュを控えた電車の中ですら傍から見れば絵になる姿であったが、そのオーラを黙して消している彼が今話題の連ドラ『季節外れのUFO』の主役であることに、結果として周囲の誰も気付いていないのであった。
 キキ……と車輪が擦れる音と共に電車がホームに入ったのか、速度を落としたのを感じた弥代は薄く目を開けた。
 程なくしてすぐ横の観音扉が開く。
 と、そこにはよく知った顔があった。
 「あれ、ヤシロ!?」
 「蒼井樹」
 弥代に気づいた学生服姿の樹が、珍しいものを見たとばかりに黒目を開いて驚きの声を発する。
 そこそこに車内へ進み入る人並みに押されながらも、樹は、すいと弥代の隣へ身を寄せた。
 「びっくりした……まさかヤシロと会うなんて思わなかったよ。というか……ー人で電車乗れたんだな。」
 「付き人が居なくなったからな。普段の移動はほとんどタクシーだが、役の探索のため乗ることもある」
 「そ、そうなのか」
 「ああ」
 腕を組みいつもの一流論を説く弥代に、制服で肩を並べる樹は素直に感心していた。
 弥代の言う探索が只の迷子ではないのかという客観的視点はともかく。
 「蒼井樹は、これから帰宅するのか」
 「うん。……ヤシロは?」
 「俺はこれから夕食の材料を買って帰る」
 「そっか、自分で作るのか……」
 以前の食レポ体験を経て、最近は料理に凝り出したと事務所メンバーが取材を受けた雑誌に記してあったのを覚えていた樹は、しかし腕のデジタル時計が午後六時を過ぎているのが目に入り、再び弥代に問いかけた。
 「なあヤシロ、良かったらうちで食べて行かないか?」
 「蒼井樹の、家でか?」
 「明日もこの近くで撮影あるなら、良かったら泊まっていってくれてもいいし……俺の家、次の駅下りてすぐだから」
 そう言ってから、夕飯の誘いだけならまだしも弥代相手にいきなり泊まっていけというのは気安すぎたかと思ったが、弥代は真顔のまま、特に動揺した素振りはない。
 黒い革手袋を顎下に当て暫し考えた後、弥代は再び口を開いた。
 「……分かった。お前の言葉に甘えよう」





 夕閣に薄暗さを増す住宅街の一角で、二人は歩みを止めた。何の変哲もない二階建ての家は、樹にここだよ、と言われなければ通り過ぎてしまうようなありふれた集合住宅の出で立ちだったが、弥代は特に気にする様子もなくインターフォンを鳴らして門柱を潜った樹に続く。
 すぐに光の灯った玄関の扉が解錠されると、樹の母親が二人を出迎えた。
 「ただいま母さん、あの……」
 あらかじめ弥代が訪れることはtopicで知らせてあったが、改めて紹介しようと樹が後ろを振り返った時。
 「初めまして、同じ事務所の剣弥代です。蒼井樹くんとは、いつも仲良くさせて貰っています」
 弥代の顔に貼り付いたとびきりの営業スマイルと明るい声色に樹は面食らい、対する母親はあらあらこちらこそと頼を押さえて礼を返す。――ウチで良ければゆっくりしていって頂戴。樹、失礼のないようにね――と、足早に合所へ去る母親の態度は、完全に友人で はなく先輩俳優『剣弥代』を迎え入れるそれになっていた。

 (びっくりした……)
 二階の自室へ辿り着いた樹が学習机に荷物を下ろす。後ろの弥代の表情をちらと伺うと、もうすっかりいつもの無表情に戻っていたので少しホッとした。
 「ここがお前の部屋か、蒼井樹」
 「うん。狭いけどガマンしてくれ」
 「………。」
 荷物片手に佇む弥代は色の違う両の瞳で、物珍しそうに部屋の中を眺めている。小さな窓の横には爽やかな水色の寝具を纏ったシングルベッド。濃青っぼい色のラグの上に小さなテーブルがひとつ。壁際には学習机とスチール製の物置棚が並んでいるが、母親が入って少し片付けたのだろうか。ゴミ箱はさちんと空になっているし、机に置きっ放しだったパズル雑誌は棚に戻されていて、部屋はいつもよりこざっぱりしていた。
 「先に風呂入る?」
 「……ああ」
 樹がそう促すと、弥代はようやく手持ちのアタツシュケースを部屋の隅に置いた。

 一階に戻りシステムバスユニットの使い方を弥代にひと通り伝えると、樹はリビングで夕飯の支度を軽く手伝いつつ、そういえば弥代が何も持たずに風呂場へ入っていったのに気付いた。クローゼットから適当なリネン類と自分のルームウェアを見繕い、脱衣所にそれを置きに行こうと扉を開けたとごろで、カラリと音がする。
 は、と前を向けばシャワーを浴び終わって湯けむりと共に浴室から顔を出した弥代とバッチリ目が合った。
 「ヤ、ヤシロ! これ、夕オル」
 「すまない」
 濡れそぼった黒い毛先からがポタポタと白い肌に滑り落ちていき、その伝う先にあるほんのりと色づいた突起を目にしてしまった樹は慌てて目を逸らした。いや 男同士だから別に見てもいいはずなのだが、何散か照れてしまった。
 「あと着替え……俺ので良かったら」
 そう言いながら持ってきた自分の服とタオルー式を出口近くの洗躍機の上に急ぎ置くと、樹は脱衣所を後にした。
 「上がったぞ」
 程なくしてリビングに現れたのは濃紺のスウエットを身に纏った弥代だった……が。
 (手足の丈、足りてないな……)
 自分の着丈の服を弥代が着ればどうなるか、少し想像すれば分かることではあったが、悲しくもそれが現実だった。最も、腹周りのサイズに問題はないため着ている弥代があまり気にしていなさそうなのが救いか。
 「あ……えっと、母さんがごはん作ってくれたから食ベよう」
 「ああ。有り難く頂載する」
 寸足らずな袖から伸びる手首と足首。いつも黒の皮手袋で覆われていて滅多に見ることのない手の、著を持つ長い指の白さに時折目を奪われながら樹は味噌汁を流し込んだ。





 「もうこんな時間か」
 夕食を終え自室に戻ってから、今度は自分の風呂と 明日の予習復習をこなし――気付けば時計は十を指している。その間部屋で共に居る弥代はずっとドラマの台本を読んでいたようだった。
 「ベッド、ヤシロー人で使っていいよ。俺床で寝るから」
 「俺は床で構わない」
 「ヤシロ、明日も仕事だろ?俺は学校だけだし、身体休めないと」
 事務所――フォルトナ=エンタテイメントの在籍期間でいえば樹の方が長いが、かたや芸能の世界では一流、そして自分より年上の弥代を床で雑魚寝させたとあらば、さすがに舞子社長にドヤされるに違いない。
 いいからと学習机から立ち上がった樹は床に腰を落とした。
 「……ならば、一緒に寝るか?」
 「えっ?」
 ローデスク越しに座る弥代から出た思いもよらない発言に、本気で言ってるのか?と前を向けば、鋭く真っ直くな瞳が大真面目にこちらを見つめている。
 「いや、別にいいよ!」
 「お前も学業に支障をきたしては良くないだろう」
 「それは……そうだけど」
 弥代の言うことは正論だ。しかし、男二人でお世辞にも広いとはいえないベッドで共寝するのは常識的にどうなのか。否、無いな……と思案して再び顔を上げた樹に、変わらぬ弥代の視線が刺さる。
 「ならば、問題ない」
 「う、うん……」
 自信満々に言い放つその態度に、ここは俺の部屋なんだぞと思いながらも、樹はついつい生返事をしてしまった。

 
 (案外狭苦しくはない、な……?ヤシロ、細いからか……)
 寝支度を整え、ついさっき二人してベッドに横たわったばかり。自分の頭のすく横に落ちる弥代の髪の毛から、うちの家のシャンプーの香りがする。ベッドに備わった小さなランプで照らされている艶のある紫がかった黒に、一筋の白い毛束がきらきらと流れているのが不思議で自然と目が吸い寄せられた。
 と、視線に気づいた弥代がちらと樹の方を同う。
 目が合って改めてその存在の近さに狼狙える。弥代にこんなにも物理的に近付くこと自体、初めてだった。
 「……あ、お、おやすみ」
 「ああ」
 僅かに弥代の薄い唇が動き、にこりと笑った……ような気がした。無理に作られたようでないので、弥代もこの状態は不快ではないのだろうか。
 ともあれ、どくりと打った鼓動を隠すように樹は弥代に背を向けると、ランプのスイッチを手探りでOFFにし、目を閉じた。

 「………う……ぅ……」
 暗閣の中、ふと、背後から聞こえる呻くような荒い息遣いに、眠ったばかりの樹はうとうとと目を覚ました。
 「どうしたんだ……?」
 パチ、と再びベッドランプを灯してみれば、横で寝る弥代が壁際に向かって身体を丸く縮こめている。
 「ヤシロ?大文夫か……?」
 そっと背中に手を添えてみると、綿のスウェットシャツがしっとりとして、その上に覗く白い首筋には汗が消り落ちていた。
 熱があるのかと思って手を伸ばし触れた弥代の額は、逆に驚くほどつめたく冷えきっていた。
 「ッ……父さん……J
 はあはあと上下する呼吸に、苦しげにそう弥代が眩いたのでハッとした。弥代の父親は、確か……。
 (悪い夢を見てるんだな……)
 悪夢に魘される弥代を放っておけず、そっと背中をさするうち、だんだんと苦しげな呼吸が収まってくる。
 優しい手の感触に気づいた弥代が、それを確かめるように樹の方へ顔を向けた。
 「ヤシロ……」
 「……あ、お……イツ……キ……?」
 うっすら涙の惨んだ深藍と碧の瞳が薄く開き、樹を映す。
 「大丈夫、俺が側にいるから、安心して」
 シーツを握ったまま固く結ばれていた弥代の手に、樹の手が重なる。まだ冷たい閣の中を彷徨う弥代は、しかしその温もりに気付くとぎゅっと樹の手を握り返した。
 「……ッ……」
 指先から伝わる暖かさにいくらか安堵したように 弥代の呼吸が整っていく。初めは継るようにして繋がれていた指も、だんだんと力が抜けてきた。
 事件から五年――未だ、父親の夢を見て魘されるほどなのかと、樹は弥代のいる境遇をまざまざと突き付けられた気分だった。
 ガーネフの悪夢に囚われて以来、この氷のように冷たい手を握る者は果たして居たのだろうか。否、弥代は言っていた。他者と合わせる必要などない、時間の無駄だ、と……。
 唯一側にいたであろうミラージュのナバールは、この世界で彼に触れることは出来ない。
 (五年間ずっと、独りで苦しんでたんだな……ヤシロ……)





 薄青のカーテンから朝日が差し込むと、目覚ましのアラームも鳴らない内に樹は覚醒した。
 横を向けば、寝る前と変わらず弥代が規則正しい寝息を立てている。良かった、あの後ちやんと眠れたのかと胸を撫で下ろしつつ、樹は改めて弥代をまじまじと眺めた。
 (俺と一歳しか変わらないのに……ほんと、手足長い……)
 すぐ隣で比べるから余計にそう感じるのかもしれないが、薄い毛布が被さっている上からでもスラリと伸びた手足、恵まれた体駆。俺もまだ伸びるかなと腕を伸ばしつつ見比べていると、ある部分に目が止まる。
(あれ、弥代……)
 毛布の中心が不自然に押し上げられている。つまり それは……。同じ男として、覚えがある状態だった。
 「……蒼井、樹……?」
 無遠慮に下腹部を注視しているところで不意に弥代が目を覚ましたため、樹は慌てて身を背けた。
 「あ……!いや、それ」
 「……?」
  指で指し示された方を向いて、弥代も自身の身体の変化に気づいたようだった。
 「硬くなっているな……生理現象だ」
 そうは言うものの、流石の弥代も差恥を感じたのか所在無げに樹から顔を背けている。弥代が上体を起こしたことで露わになった寸足らずの上衣から、肢しいほどに白い脇腹が覗いている。下着はまさか、身につけていないのだろうか。
 このまま自分がこれ以上構わずにいたら弥代はどうするのだろうか。トイレへ……或いはこの場で……自らの手で、その白く長い指でもって、処理をするのだろうか?
 「……お前なら、どうする」
 「え?」
 気が動転し、ぐるぐると頭を巡り出した勝手な想像が弥代の声に遮られる。
 「この様な状態になった時……ー人でどう鎮めているのかと聞いたのだ」
 弥代は純粋な興味で聞いているのだろう。だが、樹はもうそれが弥代からの誘い文句の他に聞こえなかった。
 「……えと……じゃあ、任せて」
 「?」
 するりとズボンの中に手を滑り込ませれば、弥代の 硬くなったそれが想像通り、直に指先に触れた。熱い。
 「んぁっ……!?」
 思わぬ刺激に弥代が声を荒げたため、慌てて樹は反対の手で弥代の口を塞いだ。
 「しーっ……部屋、壁薄いから」
 「ッ………」
 樹の意図を察したのか、押し黙る弥代はそれ以上抵抗する素振りを見せなかった。
 しばらく息を潜めていきり立つ弥代の熱を手のひらにじんわりと感じながら、指を筋に沿ってやわやわと動かしてやる。弥代は声さえ上げないが、フウフウと口を押さえている長い指の隙間から漏れ出る息遣いが 増していく。
 樹は手をゆるく動かしながら弥代の顔を伺った。嫌悪しているようならすぐにやめるつもりだった。が、ただ……気持ち良さからなのか困ったような、苦しげにひそめた眉、ズボンの中を訴る樹の手の動きを布越しに見据えていた切れ長の瞳が、細まり、ついに 閉じられる。
 熱い吐息が吐き出されるとともに、震える長い下睫毛。
 その色香にあてられた樹はもう、後には引けなかった。手のひらの中の熱を解放する――それが、自分の心臓 と同じリズムでドクドクと脈打っているような錯覚さえ引き起こす。当たり前だ、弥代の熱い昂ぶりを握りしめているのだから。
 何となく指先に触れる湿り気が強くなった気がして それがついにズボンの中で捕らえた小動物の鼻先のようにひくひくと震え出したのを機に、勢いに任せて責めめ立てる。
 「ッ……!ふ……」 
 苦しげに眉根を寄せる弥代に、このまま、出していいよと耳打ちする。
 「ンッ……!」
 その瞬間、弥代はぶるりと震えると、樹の手の中に出精した。
 もたれかかった身体が重くなると、樹はそっとシーツの上に弥代の上体を預けた。そして手のひらに出されたそれを零さないようにズボンの中から取り出し、ティッシュで拭う。
 「イツ……キ……」
 「……ごめん、窓開けるから」
 慌ててベッド脇の窓を開け放てば、さっきまでの籠った熱気に漂う草いきれのような香りが、朝の冷たく爽やかな風に吹き飛ばされていく。

 ――今、名前で呼んだ?

 「ふん……スッキリしたぞ」
 「そ、そっか」
 さっきまでしていた己の行為を思うとまともに弥代の顔が見れずに言い澱む樹を尻目に、弥代はすっくと立ち上がると、手持ちのアタッシュケースを開け、着てきた紫のスーツではなくきちんと仕舞われていた制服の衣装に着替え始める。
 「あ、俺のTシャツあるけど……」
 「遠慮しておく、返す都合が無い」
 (そ、それもそうか)
 素肌の背中にブラウスを羽織る弥代を見ながら、樹は先程から気になっていた事を思い切って聞いてみた。
 「あのさ、パンツは……」
 「シルエットが悪くなるからな。それも要らん」
 (じゃあ、ヤシロ、ノーパンで行くのか……!?)
 固まる樹に、フ、と弥代は悪戯ぼく笑ってみせた。
 「道すがら調達するから問題ない。それより化粧水を貸せ。洗顔してくる」
 「え、ちょ、ちょっと待って……確か洗面所に置いてあったはず……」
 あたふたと先に部屋を出た弥代を追いかける。弥代は今、ノーパンなんだぞ、などという訳の分からない理由で。
 しかしその事実を他の誰にも知られたくないと、樹は思っていた。

 樹に借りた化粧水をコットンにたっぷりと浸しながら弥代が洗面台の前に立つと、それを手慣れた様子で顔に満遍なく貼り付けていく。
 「お前もタレントを志すなら、肌の手入れに気を付けろ。カメラがどれだけ寄っても対応できるようにな」
 「うん……分かった。気をつけるよ」
 隣で興味深そうに見ていた樹に弥代が指南する。確かに弥代の肌は近づけば近づくほど、きめ細やかで美しい。そして、あの吸い付くような感触。
 「うわっ」
 また火照りだした頼にひやりとした弥代の指が触れて、驚いた樹が顔を上げる。
 「お前も元は悪くないのだからな。やってみろ」
 「あ、わ……分かった」
 そうしているうち、リビングから朝食の声がかかった。





 (まさか弥代と一緒に登校する日が来るなんてな……)
 隣を歩く弥代を、樹はまぶしそうに見つめた。
 「そう言えば、ヤシロって学校は?高校……は、行ってないのか」
「ああ。芸の道を極めるには、必要ではなかったからな。……だが」
 「?」
 「イツキとこうやって肩を並べて歩くのは、悪い気がしない」
 そう言うと満足げに微笑む弥代の笑顔の屈託の無さを目にして、樹ははっとした。これまでずっと離れた存在のように感じていた弥代が、自分と同じ年相応に見える。
 ……いや、一応、弥代は自分よりーつ年上で、身長も十センチは高いのだが……それでも。
 「……ふふ、俺もヤシロとこうやって通学してみたかったかも。ちよっと目立つかもしれないけどな」
 「何故だ?」
 「いや、背が……」
 「赤城斗馬も同じくらいあるだろう」
 「うーん……いや、何ていうか、オーラの違いかな」
 「?」
 またいつもの真顔に戻った弥代が首を傾げている。
 「おーい!イツキー!」
 「あ、噂をすれば」
 振り返れば、斗馬が手を振りながら駆け寄ってくるのが見える。
 「って!何で横にヤシロが居るんだよ!?しかも制服??」
 「イツキの家に一泊したからな」
 「!!」
 さらりとそう言ってのけた弥代に斗馬は唖然とする。
 「え、泊まっ……?お前ら……いつの間にそんな関係に……!?」
 「いや、ヤシロと昨日の帰りに偶然電車で会ってさ……」
  苦笑しながら樹がフォローを入れ、この話は他愛も無く終わるはずだったのだが。
 「別に夕食後にタクシーで帰っても良かったんだが」
 「! ヤシロ……?」
 「イツキがどうしてもと言うから」
 はっとする樹に、顔を見合わせた弥代が悪戯っぼい笑みをたたえていて、一瞬時が止まる。
 「……そうか……。昨晩は二人共、お楽しみだったようで_」
 「いや!何もしてな……」
 「いやいやいや、前とヤシロが昨晩?!何かあったらダメだろ!」
 「トウマ!!」
 大怒裂に驚いてみせる斗馬になぜか腹が立ち、声を荒げたところで、横を歩いていた弥代が立ち止まった。
 「俺はこっちだ……イツキ」
 「!」
 気づけばもう駅まで来てしまっていたらしい。
 「感謝する。お前のおかげで、久しぶりによく眠れた」
 「……あ、ああ……。俺も、ヤシロが家に来てくれて……楽しかった。えっと、良かったらまた遊びに来てくれ」
 「……フ、時間があればまた、考えておく」
 イツキの両親にも世話になった、と伝えながら樹に向けられた笑顔は、とても自然で、柔らかい。
 「ではな」
 そう言って弥代は軽く右手を上げると、隣のホームへと立ち去っていった。 樹も、その後ろ姿を笑顔で見送る。

 「あのー……、やっばり何かあっただろ、お前ら」
 「気のせいだろ」
 「ヤシロのあんな顔初めて見たぞ」
 「……そうか?」

 ホームに出て電車を待つ間見上げた青空には、白く長い飛行機雲が一筋。
 珍しくそれは、樹の目を長く引きとめていた。

 next

イツキくんの家にお泊まりするヤシロが書きたかった。
手足長くて芳しい一個上のお兄さんが自分のベッドで一夜を明かしていたら、そりゃあイツキくんも理性を失いますよね、と信じて

畳む

#イツヤシ #sleepover