愛憎

 ラフィンがそれらの事実を知ったのは、あの部屋から出てすぐのことだった。
リーヴェ王宮を占拠する帝国軍攻略部隊の将に、ナロンが選ばれたということ。それも、自ら進み出たという。
大陸屈指の戦力を抱える王宮侵攻まで、あと二日もないということ。それまでにリュナンの送った撤退要求を王宮に残るカナン第三王子ジュリアスが承諾しなければ、同盟軍とカナン全軍による総力戦が図られる。
ラフィンの率いてきた飛竜隊の指揮は、既にウエルトの王女サーシャに託されていた。
ガルダを失ったラフィンは、同盟発足前からリュナン軍に従事していたウエルトの騎馬部隊の一つを率いるということが決まり、そう軍部から通達された。それ以外、特に咎められることはなかった。
戦を直前にし、他にも配属換えを申し出る兵が多かったため、ラフィンもいつの間にかその流れに紛れ込まされていたのだ。

(……あっけないものだな)
 用意された馬の調子を見に厩へ訪れると、エステルがいた。向こうも兄の姿に気付き駆け寄ってくる。
馬の尻尾のような、銀の髪が揺れた。
「兄上!お体は、大丈夫ですか」
「な……どうして、それを………」
 開口一番そう告げられ、ぎくりと身が竦む。
「ナロン殿が今朝の軍議の席で言ってました。兄上はラゼリア郊外の丘に巣食う盗賊団に単身乗り込み、怪我を負われたと。その際、飛竜を盗まれてしまったとも……」
 エステルの言葉にラフィンは唖然としたが、それでこうもあっさりことが運んでいるのかと、ようやく理解することが出来た。
「……兄上?」
「!、ああ、その通りだ」
 黙ってしまった兄の様子を見て不思議そうな顔をする義妹に、あわてて返事を返す。
「もう!兄上はいつも危険を顧みずに一人で突き進んでしまうところがあるから………。最近姿も見えなかったし、私……」
「……すまない、お前には心配をかけた。だが俺は平気だ。ガルダも、すぐ見つけてやるさ」
 そう言って、全て嘘じゃないかと心の中で自嘲した。
第一、ガルダは…
「あ、兄上……その、……」
「うん?」
「……ガルダが見つかれば……あなたはまた竜騎士に戻ってしまうの……?」
「……………そうだな……………」
 エステルの問いにははっきりと答えられなかった。
以前ならば、それが当たり前のことであった筈なのに。
目を伏せて厩を去るラフィンの影を、エステルはじっと見つめていた。

(こんな様では、シャロンに会わす顔がないな……)
服を脱ぎつつラフィンはそう感じていた。
あの部屋から出てきてシャワーすら浴びていないことを思い出したラフィンは、兵士用の浴場に足を運んでいた。もう胸にあのピアスは無いから、裸を見られても憂慮することはない。
ずらりと並んだ棚に等間隔に置かれているカゴへ衣服を詰め、身体を洗うための小さなタオルを手にすると、浴場の曇ったガラス扉を開ける。広い浴場は、昼過ぎということもあって誰もいなかった。
久しぶりの湯船に肩までつかり、伸びをする。ラゼリアは水源豊かな国であるため、大きく作られた浴槽には並々と温水が張られていた。
湯船を縁取る金色の装飾がガラス窓から差し込む太陽の光を受け、きらきらと輝くさまが美しい。
(……長かった……………。)
 遠いウエルトのヴェルジェを出てから、一年が経過していた。戦は佳境に入っている。
おそらく、リーヴェ王宮を帝国からリュナンが取り戻せば、カナンを属国とする旨の平和調停が組まれるだろう。
そうなれば、いつでもバージェへ戻りその復興活動を行うことが出来る。
しかし、ガルダを失った今、本当にバージェへ帰るべきなのかとも思える。祖国はもう、滅亡したのだ。王族も残ってはいない。逃亡した尋ね者の男がしゃしゃり出るよりは、いっそ全てをリュナンに任せた方が良いかもしれない。
(ならば、どうするつもりだ)
 ラフィンは自問自答した。
目標を見失い、一体自分の中に残されているものは何なのかをひたすらに考えても、浮かぶのはただナロンの姿だった。
 王宮奪回のための将軍だという。帝国相手に、あんななりで大それたことを申し出たものだと思いながら、ふとある予感が頭をよぎる。
(………まさか、死ぬ気か)
 ナロンの様子が明らかにおかしかったのも、全てそうだとしたら。
「馬鹿な……それがいったい、俺に何の関係があるというんだ」
 忌々しげに吐き捨てると、ラフィンは水面を叩きつけた。
もしそうなれば、これまで己が見せた痴態を知るものは数名の部下の他いなくなる。せいせいするじゃないか。
だがラフィンの心中は大きく水面に広がる波紋のように、穏やかではなかった。
(くそっ)
ナロンの影を振り払おうと、ラフィンは石壁で仕切られたシャワーブースに行き、バルブを捻った。
頭から被った水が音を立てて排水溝に流れていく。
(どうして……どうしてあいつのことなど………)
 壁面に頭を突っ伏して、どれくらい時間が経っただろう。不意に背後に人影を感じ、ラフィンは後ろを向いた。
「……!お前は………」
 そこには、見覚えのある男が立っていた。
同じ飛竜を駆る、部下の一人……それも、あの丘にいた顔だ。
「隊長………へへ……奇遇ですね」
 男はラフィンとそう年は変わらないようだが、中肉中背の、とりたてて目を引く容姿ではなく、無精ひげを生やしていた。男の口が酒臭い。おそらく昨夜開かれたらしい祝賀会に参加し、今の今まで飲んでいたのだろう。
「………っ」
 ラフィンは湯の出ているバルブを閉めると、早々に男の前から立ち去ろうとした。
だが、狭い仕切りの中、ラフィンの前に立ちはだかるようにしてその男はニヤついている。
「どけ」
「……そうはいかねえなぁ」
「どけ!!」
青筋を立てて叫ぶラフィンに、おおこわいこわいと男はおどけて見せる。
こんな酔っ払い、構ってられるかとラフィンはその体躯を押しどけようとした。
「!」
その男の足の間のものがいきり勃っているのを見て、ラフィンは息を呑んだ。その隙に、両肩をがっしと捕まえられてしまう。
「へへ……そう簡単には逃がさねえぞ………。」
「くっ」
男がそのまま全体重をかけて寄りかかってきたため、ラフィンは後方の壁へ背をしたたかに打ち付けた。
臭い息が間近にかかり、不快感に眉をしかめる。
「離せ!止めろ!!」
「じっとしろよ、おい」
ばたばたともがくラフィンを男が押さえつける。
「うるさい!誰か……」
「おおっと、人を呼べば、俺はお前がどうして竜騎士を辞めちまったのか、言いふらすぞ」
「……………!」
 目を見開いてラフィンは男を見た。男の目は濁り、だらしなく開いた口はハァハァと荒い息を吐いている。
まるで発情した獣のようで、ラフィンは寒気を覚える。
(こいつ、まさか……!)
「へへっ、静かになったな。そりゃあそうだよな。竜に股開いて大小便垂れ流したあげく、逃げられただなんて知られりゃ、てめえの印象ガタ落ちだもんな」
「……………。」
何故、こんな取るに足らない男に弱みを握られ、それをゆすりの材料に使われているのかと思うと、怒りに気が狂いそうだった。
「ん……?おい、ピアスはどうしたぁ?」
「うっ」
男はラフィンの乳首をつまむと、ぐいぐいと力任せに引っ張った。激しい痛みが襲う。
「ええ?ピアスだよ。ここに二つぶら下げてただろう」
「ぅっぐ……!うる、さっ……ああっ」
 あまりの痛みに、ラフィンは叫び声を上げた。男はそれに満足したように、手を離すと充血したそこを爪先でガリガリと弄り始めた。
「ぅうっ……!く……」
「ははっ、そうか、あんたナロン殿にも捨てられたんだなぁ!はははっ!!そりゃあそうか、あんな最悪のショーを見せつけられちゃあな!」
 その言葉に、胸が締め付けられる思いがしたラフィンはキッと男を睨みつけた。男への憎悪を剥き出しにして。
「な、何だよ……本当のこと言われて、頭にきたのかぁ!?」
「黙れ!!」
 ラフィンは噛付きそうな勢いで叫んだ。
「お前に何が分かる」と続ける前にまた乳首が抓られ、グッと言葉に詰まってしまう。
「ハッ、そんな涙目で睨んでも何も怖かねーよ。ほら、もっと色っぽく泣いてみろよ、あの時みてえによお!」
「い……っ!!グ、ああっ……、ぅぐっ」
 乳首は赤く腫れ上がり、僅かに血を滲ませている。
あのナロンでも、ここまで酷く扱うことはしなかった。
(ナ……ロン……………?)
何故、またあの金色の髪を思い出してしまうのか、ラフィンは痛みで滲む視界の中で感じていた。
「何だその声はぁ……ちっともかわいくねえ。それじゃ、ここはどうだ」
 男は遠慮なくラフィンの腰に巻いてあったタオルを引き剥がすと、萎えた中心をつかみ、上下に擦り始めた。
「ぅあ……………!止めろっ!」
 力任せに握られ、ラフィンのそれは痛みしか訴えなかった。男の指が己の性器を扱いているという事実に、気分が悪くなる。
「うぐっ………ぐっ………痛……ッ」
「おい!ちっともでかくなんねえぞ!?こうされると気持ちいいんじゃねえのか」
 しかしラフィンの顔は青ざめ、とても快楽に酔う兆しは見られない。チッと男は舌打ちをすると、それを放り出し、ラフィンの長い脚を抱え込もうとする。
「そうかよ、俺に反応しねえってんなら、もう俺は勝手に愉しませてもらうからな」
「……………!?っな」
 ラフィンの身体が宙に浮いた。
男はラフィンの脚を強引に肩に担ぎ上げ、身体を二つ折りにすると、狙いを定め、いきり立った自身を後孔に向かって突き入れた。
「ぐああああぁぁあっ」
 身体の中心に槍が刺さるような衝撃と痛みで、ラフィンは咆哮を上げた。
男は構わず、メリメリとろくに濡れてもいないラフィンの尻に腰を押し付け、雄根を埋めようとしている。
「うあっ!! あぐ、ぅ!………がぁっ……!」
「痛えっ!おい、もっと力抜けよ!食いちぎる気か、この……」
 男は手を伸ばすとラフィンの濡れた頭をみ、後ろの壁に向かって打ち付けた。ゴン、ゴンッと鈍い音がする度、ラフィンのうめき声が浴場に響く。後頭部に受けたショックで、ラフィンの目の前が真っ暗になる。
「! ぅ、うぐっ……」
 力が弛緩したのを見計らって男が挿入を開始したため、すぐに意識は激しい痛みで揺り起こされた。
もはや、ラフィンの身体を性欲のはけ口としか見ていない男は、ラフィンを見ていなかった。
「おおっ……すげえ、すげえぞっ、肉が締まるっ」
 血生臭い味と匂いに、ラフィンは鼻から鼻血が垂れているのに気付いた。それだけではない。後孔の粘膜も破れて、床に血痕を広げている。
「ぅああ……………あ……ぐ……………」
 痛み以外何ももたらさない行為。
ただ興奮した男が下肢を蹂躙している。
今まで味わったことがないくらい胸がむかつき、気持ち悪い。
「ぅぐっ」
 突然男の顔が迫ったかと思うと、ラフィンの唇にあてがわれた。臭い舌が口腔に入ってきて、ラフィンはたまらず、胃の中のものを逆流させた。
「うげっ!!」
 舌を刺す酸っぱい味に面食らった男は、くっつけていた顔を引き剥がした。しかしその顔めがけてラフィンの吐瀉物が吐き出されていく。
「!! ぅ……げぇっ………ぅぶ………」
「うわあああ!!」
 それまでしきりに興奮していた男は、パニックを起こしてラフィンを取り落とした。顔から胸にかけてべっとりとかかった生暖かいラフィンの吐き出したものを、慌てて壁のシャワーで洗い流していく。
しかしブースの中は、気持ちの悪いにおいがこもってしまっていた。
「うげぇえっ!勘弁してくれよ!!てめえなんか、もう二度と抱くかっ」
 仰向けで倒れたままのラフィンの脇腹を蹴り上げると、男は逃げるように浴室から姿を消した。
ラフィンは蹴られた衝撃でさらに二、三度胃液を上げた。内臓全てが吐き出されるような心地だった。

「ぅ……………」
 男が消えた後、浴場は湯の流れる音のほか何も動きがなかった。
ラフィンは憔悴しきった顔を上げると、手を伸ばし、シャワーのバルブをひねる。暖かい温水が身体に降り注いだ。
「……………っ………ふっ…………………」
 頭が痛い。尻から腰にかけて引き裂かれたように痛い。したたかに打ち付けた背中も痣を作っている。
 レイプされたのだ。それも昨日まで自らの部下だった男に。
思い出しただけで吐き気を催し、嗚咽を繰り返す。
しかし腹の中はもう何も吐くものがないらしく、唾液が糸を引いて流れ落ちるだけだ。咽が引きつり、生理的な涙がぽたぽたと零れ落ちた。
(どうして………こんな目に……俺は……………)
 頭は無意識的にナロンのことを思い出していた。
ナロンにも最初、こんな風に扱われた。
だが、ナロンはその後きちんとラフィンを部屋に運び、傷ついた箇所に優しく薬を塗ってくれた。
その時触れる手の暖かさは、決して嫌いではなかったと実感したばかりだ。
 しかしさっきの男に触れられても、何も嬉しくない。むしろ嫌悪で全身が総毛立つ。
そんな男を、無理矢理ではあるものの受け入れてしまったのだ。
「……っ……………ぅう……う……………」
 手足がガタガタと震え、ラフィンは痛む身をちぢ込ませた。顔に両手を押しやるが、しゃくり上げる声は次第に大きくなっていく。
こんな目にあって、誰に頼ればいいのか分からない。言い知れぬ恐怖が襲い来る。
(……ナロン……ナロン…………………)
 引き攣った叫びが、心に木霊した。 しばらくラフィンはそうしていたが、やがて日が沈み、浴場に影が差すころになってようやく立ち上がった。
出血は止まっていたが、そこを襲う変わらぬ痛みに、半身を引きずるようにして脱衣所へ行き、服に手を通す。
髪も濡れたまま、ラフィンは自室に向かった。
廊下ですれ違う誰とも目をあわさぬよう、終始俯いたままだ。
自室の扉を開けると、ラフィンはベッドに突っ伏した。
カーテンは閉めきられ、明かりもなく、真っ暗だった。
「……ぅう……っ………ぅっ………ナロ……………」
 シーツはあとからあとから流れる熱い涙に濡れていく。
こうして女のように泣いていると、それに気付いたナロンはいつも優しく手を差し伸べてくれた。
けれど、それももう終わったのだ。
もはやラフィンの前にナロンが現れることはない。
暗い部屋の中、ラフィンは泣きながら眠った。






「第三番騎兵隊!出撃します!!」
 おお、と唸る声にあわせ、土煙が舞った。
隊列を整えた馬たちが嘶きながら東へ向かっていく。
(……………いよいよか)
 ラフィンは第四番騎兵隊の隊長として、北西の砦へ向かうことになっている。
 結局撤退交渉は受け入れられず、リーヴェ王宮前では帝国とリュナン軍の全面戦争が開始されていた。
帝国軍は王宮の城門に続く道を囲む崖上にシューターを何基も配置し、東西南北の砦にも増援部隊を終結させていた。   
まさに総力を挙げてのぶつかり合い。
こちらの作戦は、まず崖上のシューターをサーシャ率いる竜騎士隊で殲滅し、その後もそこに留まり、近くにある砦を処理する。
障害が無くなれば一気に将軍である黄金騎士、ナロン率いる精鋭部隊が『カナンの剣』エルンスト将軍――同じく黄金騎士の称号を持つ武人の守る城門へ突撃し、戦の短期決戦を望んだ。
しかし城門の後ろには砦が聳え、それらに壁のように配置されたシューターが危険すぎるゆえ、癒しの力を持つ神官などは連れてゆけないという、非常に厳しい作戦だった。
それらをサポートするためには、西と東にある五つもの砦をなんとしても押さえておかねばならない。
いずれも、強敵が待ち構えていることに違いなかった。
「兄上!」
同じ部隊に配属する副官、聖騎士エステルが、準備が整ったことを告げた。
「よし、第四騎馬隊、出撃する!俺に遅れをとるな!」
 おおーっ、と歓声が上がった。

一方、前線にいるナロン達は立ちはだかる敵をなぎ倒し、ついに城門前の敵将と相対していた。
青いマントに、黄金の鎧がまぶしく光る。
ナロンは手の中の槍を握り締めた。相手は、かなり強い。
「ここから先は断じて通すわけにはいかん!……通して欲しくば、わしを倒すことだな」
口ひげを蓄えた金髪の紳士は、一騎打ちを申し出た。
もともとそうするつもりだったナロンは、後方に控えるリュナンに目配せすると、一歩、馬を歩み出させる。
「なんと……若いな。その若さでわしに立ち向かうというか」
 ナロンの姿に、エルンストはいささか驚いたようだった。
遠い島国に残した息子がもし生きていれば、このくらいであろう。
「ええ。僕はあなたを打ち倒す。覚悟しろ」
「笑止!小僧、それはわしの一撃を受け止めてから言え!」
エルンストの腕が、目にも留まらぬ速さで振り下ろされたかと思うと、ナロンの眼前に槍が迫っていた。
「くっ!」
すんでのところで盾で弾き飛ばす。
「ほう、受けたか。だが、もう一度は無理だろう」
重い痺れが腕から伝わり出したため、ナロンはそれを投げ捨てた。
よろめきそうになる馬の手綱を引き、槍を構えて突進する。玉砕覚悟であることは、そこにいる誰もが理解した。
「来い!小僧!!」
「小僧じゃない!僕はナロン!ウエルトのゴールドナイト、ナロンだ!!」
「何……!」
 ナロンの叫びにエルンストはほんの一瞬、狼狽した。
その隙を、ナロンは見逃さなかった。
「たああああぁぁぁっ!!!」
「……ぬっ、ぬおおおおぉぉぉ!!!」
 鈍い音が辺りを切り裂く。
 二騎の将軍は、互いに馬から転げ落ちた。
 おびただしい量の血が、ナロンの腹部から流れている。
息を呑むリュナン軍が次に目にしたのは、地に立ち上がるエルンストの姿だった。
「……まだだ………」
その胸の中心に、ナロンの槍が貫通している。
「……まだ、ここを通すわけにはゆかぬ……バルカ様の苦渋の決断が……倒れていった幾万の将兵たちの魂が……そして、カナンの未来が…………戦え!戦え!……と……
…………ゆえに!このエルンスト、断じて!断じて!引かぬ!……倒れぬ!……退かぬ!!……………」
『カナンの剣』エルンストは、リーヴェ王宮前で仁王立ちのまま息を引き取った。
 それを見届けたナロンの視界は、次第に霞んでいった。
(よかった……これで……………ラフィ……さ……)
 ナロンは満足そうにいつもの笑顔をして見せると、血を吐き、倒れた。






「!!」
 突然胸にざわめきを感じ、ラフィンは北の方向を見た。
そこにはうっそうとした森が広がるだけだ。リーヴェ城はその外形すら見えない。
(もうそろそろ……決着がついていてもよさそうだな)
 ラフィンが城から出撃して、三時間は過ぎていた。指定された砦へ辿り着くまでの道を守る兵を片付けた後、大きな砦はあらかた一掃したが、まだ奥には数十の精鋭が残っているらしいと聞いたところだ。
 その時、馬に乗った伝令係が北から現れた。
「報告!ナロン将軍は『カナンの剣』エルンストを撃破!!帝国兵は、直ちに投降せよ!!」
 リュナン軍の青竜の旗を振りかざす伝令の言葉に、ラフィンは心底ほっとした。
はやる気持ちを抑えきれず、伝令に声をかける。
「ナロン将軍は、どうしている」
「ラフィン殿!……それが……………」
 急に顔色を変えて言葉を濁した伝令兵の様子に、ラフィンは不安に駆られた。
「おい!ナロンの身に、何かあったのか!?相手の将は討ち取ったのだろう」
「は、はい……。ですが、ナロン殿も刺し違える形で、重症をおっており……………」
 そこまで聞いて、ラフィンの胸中が震えた。
「な、なんだと……………」
 足がふら付き、倒れそうになる。さっと、血の気が引いた。
「兄上、しっかりして下さい!」
 聞こえてきたのはエステルの張りのある声だった。ぐいと、腕を引き上げられる。
「……す、すまん…………エステル」
「ラフィン……」
 蒼白になった義兄の顔は、見ているだけで辛いものがあった。伝令も、慌てている。
「治療のためシスターを前線に呼ぼうとしたのですが、王宮の周りの砦から突然増援のシューターが現われ、それもかなわないのです」
「……では、ナロンはまだ、その矢面に立たされているとでもいうのか!」
 言って、ラフィンは唇を噛み締めた。
ここで怒鳴っても仕方ない。ナロンに何もしてやれない自分に腹が立った。
こんな時、ガルダがいれば…森を越えて、ナロンの元にいけるというのに……!
(ガルダ…………!頼む、来てくれ、ここに……!)
 ラフィンは空を見上げた。曇天の覆う空は今にも雨が降り出しそうだ。
しかし、雲の切れ目にかすかな影が動くのをラフィンは見た。
「まさか……!」
 ラフィンは馬を下りると、広い平地へ飛び出した。
「ガルダ!!」
 力任せに呼ぶ。みるみるうちに影は大きさを増し、やがて緑の鱗を輝かせながら、ラフィンの前に降り立った。
その姿は、紛れもない愛竜、ガルダだった。
「ガルダ、ガルダ……!」
ラフィンはその巨体に手を伸ばしかけた。しかし、一度信頼を失ったはずのガルダがもし拒んだらと、指先が震えてしまう。
だが、ガルダはその手をペロリと舐めた。
(俺を、許してくれるのか……ガルダ……?)
「グル」
 ガルダは嬉しそうに一鳴きすると、ラフィンの手を甘咬みして背のほうへ持っていく。
「乗れと……そう言ってくれているのか、ガルダ」
「グルル」
 ラフィンはそっと背後を振り返った。
白い馬に跨ったエステルが、目に涙を溜めている。しかしガルダに乗って行こうとするラフィンを止めることを、彼女はしなかった。
「ラフィン隊長!ここは私に任せ、どうぞ、王宮へ!」
声を張り上げるエステルは妹ではなく、一人の女聖騎士の姿だった。いつのまにここまで立派な騎士になっていたのかと、ラフィンの胸が熱くなる。
もう、俺がいなくても何も心配はいらないはずだ。
「竜騎士ラフィン、これより、北へ向かう!」
 ガルダの首に巻かれたままだった手綱を引くと、ラフィンは天高く飛び上がった。

 久しぶりの空は飛行するのに最悪の状態であった。
雲が視界を遮り、風に手綱を取られながらも、ラフィンは持てる限りの技術を駆使して北へと向かった。
ようやくリーヴェ王宮の壮健な城門が見えてくる。
空にあって、ラフィンは慎重に自軍の旗を探し、かくして、城門の奥と、王宮の真正面から少し離れた森にそれを見つけた。
奥はまだ交戦している。
では、と森に向かってガルダを急降下させた。
木々の間に少々強引に降り立つと、驚いた様子の面々に名乗りを上げ、ナロン将軍はと問いかける。
「将軍は……そちらに……………」
 案内されて行くと、ラフィンは目を疑った。
「ナロン!!」
黄金の鎧のほとんどを血に染め、地に伏しているナロンに、ラフィンは慌てて飛びついた。
その息は荒いわりにひどく弱弱しい。唇が血の気を失って、青くなっていた。
「ナ……ロン………!」
 ラフィンはナロンの手を握った。
それに気付いたナロンが、ゆっくりと薄目を開ける。
「…………ラ………フィ……さ……………?」
「喋るな!今俺がシスターのところまでお前を運んでやる!ガルダが帰ってきたんだ!」
 しっかりと手を握り、心底心配そうな目をしているラフィンに、ナロンは薄く笑みを作った。
「……………ふ、うれし…………。また、ラフィ、さ……と、会えて………」
「ああ、ああ、そうか。分かった、もういいから黙れ!」
「これ……で………ぼく……は……………」
 ふっとナロンが目を閉じた。
「ナロン!!」
 ラフィンは叫び、まだ暖かいその身体を担ぎ上げた。
「死ぬんじゃない!お前を……死なせはしない!!」
 回りの静止を振り切り、ラフィンはナロンの身体をガルダに乗せ、しっかりと抱え込むと、再び空に舞い上がった。
降り出した雨がナロンにかからないよう、ラフィンは懸命にナロンの頭をマントで覆い、抑えた。
しかし、徐々にナロンの身体は冷たくなっていく。
(死なせるものか……!死なせるものかっ!!)
 気を抜けば泣き出しそうになる不安を胸に、ラフィンは飛んだ。雨が背中をしどどに濡らしている。
雲の切れ間に雷が走っても、ラフィンは構うことなく南へ飛んだ。
幸いにも、帝国軍の砦はほとんど制圧を終えていたため、攻撃を受けることはなかった。
「ナロン……………!」
 本城の周りではためく青旗を目指し、ラフィンは弾丸のように降り立つと、シスターを呼べと叫んだ。
 ナロンに癒しの杖が掲げられたのを見ると、ラフィンはその場に崩れ落ちた。






窓から柔らかな光が差し込んでいる。
「……………ラフィンさん……。」
 ナロンが目を開けると、すぐ横に、ぼさぼさにした茶色の髪を垂らして項垂れているラフィンがいた。ナロンの声に気付くとその頭を大きく上げ、両目を見開いてナロンの顔を覗きこんだ。
「……気が………付いた、のか………?」
 声が震えている。
ラフィンの手はナロンの包帯が巻かれた手をしっかりと握っていた。ずいぶん痺れているから、きっと長い間握り締めていたのだろう。
「………気分は?………どこも、痛くないか………?」
 ナロンが何も言わないと、ラフィンは心配そうにそう続けた。ナロンがゆっくり頷いてやると、はぁ……と息を吐いた。
「そうか………………」
 よく見ると目の下に隈が出来てしまっている。
せっかくの綺麗な顔なのに、それは色濃い疲労を見せていた。
「……………どうして、僕を……助けたんですか?」
 あの、必死の形相でガルダに跨りやってきたラフィンの様子を思い返しながら、ナロンは語りかけた。
返事はない。
「………僕を助けても……あなたが苦しむだけだ」
 その言葉にラフィンは首を横に振った。
握り締めた手を、自らの額へ持っていく。
「………違う………分からないんだ……………」
「……え?」
「分からないんだ………!」
 手に熱いものが流れるのをナロンは感じた。
ラフィンが泣いている。
「俺は……お前を……心底、憎んでいたはずなのに……なのに………お前が……いなく、なったら……胸が…………どうしようもなく苦しいんだ……………」
「ラフィンさん」
 ナロンは大きく息を呑んだ。
「お前のせいだっ……お前が、俺をこんなにした…………それを……責任も取らずに、勝手に、死の、…と……す、なん……」
 最後のほうは言葉になっていない。
ラフィンは大きく身体を戦慄かせ、嗚咽を上げている。
「……ごめん……ラフィンさん」
「ぅ……る……さ…………」
「でも、ラフィンさんは、それでいいんだね……?僕が生きていれば、この先ずっと、ラフィンさんから離れないよ?」
「……………………。」
「きっと、僕はこれまで以上のことをラフィンさんに求めてしまう。………それでも……いいの?」
 ラフィンはゆっくり、頷いた。
「……ああ………………………」
 鼻をすすり上げ、今度ははっきりとそう告げた。
 ナロンは笑顔を返す。
「あは……そっか……………。」
「ナロン」
「ん?」
「………頼みが、あるんだ………………。」
「言って、ラフィンさん」
 そこまで切り出して、言いよどんでしまったラフィンをナロンは促した。
きっと、痛いのや恥ずかしいのは嫌だと言うつもりなのだと思っていた。
「この戦いが終わったら、……俺も、ヴェルジェに戻ることにしたんだ」
「うん。……………えっ」
「それで……もし、お前がよかったら……共に、ヴェルジェの館に来て欲しいんだ………」
 ナロンはその言葉の示す意図に気付き、心底驚いた顔を見せた。
だがラフィンの目が至って真剣なのを見て、やがて、あの眩しい笑顔を浮かべた。
「喜んで」

窓の外は鮮やかな新緑が雨露を光らせていた。
もうすぐ、夏だ。



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