悪魔の所業

サリア古城、兵舎の一室。
薄いカーテンが引かれた窓辺から朝日が差し込んでいる。
その光に彼は目を開いた。
(朝、か……)
気だるい身体を、ラフィンはゆっくりと起こした。寝不足で頭が重い。晴天に光る窓の外を恨めしく見据えながら、身支度を整える。壁の時計を確認すると、三時間程度しか眠れていないことが分かった。
 今日は出撃こそないが、昼前に各部隊合同による軍議があったはずだ。
(ということは、またあいつに会うのか………)
 忌まわしい黄金色。
(っ)
 不意にこれまでナロンから受けた凄惨な仕打ちが頭をよぎり、胸にきりりと痛みが走った。それを振り払うように、洗面台へ行き冷水で顔を洗う。
 あいつのことなど一時たりとも思い出したくない。その影を忘れるため、無心に水を顔に打ち付けた。ごぼごぼと音を立てて排水溝に流れ落ちていく水が、やけに透き通って見えるのが気に食わなかった。

 濡れた顔と髪を拭っていると、目の前の鏡にふと視線が移る。
 はだけた白いシャツの胸元にちらりと覗いているのは、黄金色に光るピアス。
(そうだ、……あの時、何が何でも逃げれば良かった。そうすれば、こんな……)
 そのピアスは、ラフィンがナロンの部屋に初めて連れ込まれた時に穿たれたものだ。針を通した時の激痛とまではいかないが、異物感を感じずにはいられない。
 それがナロンの支配を常に受けることを意味しているような気がして、酷く腹立たしい。
 しかもこのピアスのせいでラフィンは、兵士専用の大浴場にも行くことが出来なくなり、各部屋に設置されている簡易シャワーを使わざるを得ない毎日を過ごしていた。
かといってそれを無理矢理引きちぎってやる勇気もない。
まるで一生消えない刻印を付けられたも同然だった。
ナロンの歪みきった愛とかいうモノからくる、刻印。そして行為。
理不尽なそれに再び怒りと屈辱を思い出し、ラフィンの手にしていた櫛が折れそうなほどしなる。
(プライドも何もかも、全てあいつに奪い去られた。)
ナロンの言い分がどうあれ、ラフィンにとってはその全てが嫌悪の対象に変わりない。
 しかし、ナロンから逃れるすべは今のところなかった。
騎士としてヴェルジェに落ち延びて来た時から、祖国を破壊した帝国を討つことと、その再建だけを願ってきたの
だ。おめおめとヴェルジェへ逃げ帰ることなどできる訳がない。それに今さら、軍を辞しても尋ね者として身動きが取れなくなることは目に見えていた。
出来るのはただ、あいつが自分に接触してこないことを祈るだけ。
(ふん……そんなはずがない………)
ゴールドナイトなどという誉れ高い称号とは程遠く、蛇のように一度捕らえた獲物を放そうとしないあいつは、きっと今日も…………。
憂鬱な気持ちから抜け出せないまま、ラフィンは食堂へ向かった。

 食堂は朝の時間のピークとも言える混みようで、多くの兵士達がガヤガヤと活気づいていた。
 きっとナロンも来ている筈。そう思い、喧騒の間を空気のようにすり抜けていく。
「あ、隊長」
 だが唐突に、ラフィンの目の前に見知った部下の一人が顔を出した。
「お、おはようございます……」
「………。おはよう」
いつもよりどことなくよそよそしい態度の部下。確かに、先日隊長である自らのあのような醜態を目の当たりにしたのだから、無理はない。後ろ指を指されて嘲笑されない分、気を使っているようだった。
それを感じたラフィンは余計に心苦しくなる。
「あ、あの、実は先程、ナロン殿に伝言を承りまして……」
「何?」
忌まわしきその名前を聞いて無意識に顔が険しくなっていたらしく、部下がじり……と後退った。
「あ、あの……朝食後、ナロン殿の部屋まで隊長にお越し頂きたいと………」
恐々としながらも、部下は用件を伝えきった。
「…………分かった。手間をかけてすまんな。」
義務だけの返事を返すと、ラフィンはひとまず部下を遠ざけた。これ以上顔を合わせてはいられなかった。
 何とも言えない感情が胸に蟠る。何か、嫌な予感がする。
 しかし、伝言を聞いてしまった以上、その言葉通りナロンの元へ行かねば、次はあの部下があいつに何かしらの報復を受けるかもしれない。相手は自分の欲望の為なら何をしでかすか判らない奴だ。
 もはや味のしなくなった朝食を胃に流し込みつつ、ラフィンは苦悩していた。
(……まさか朝から、あいつも俺に手を出すことはない、か……)
 重々しく一息つくと、ラフィンは渋々ナロンの部屋へと足を運んだ。

ナロンの部屋の扉を叩いたが、返事はない。
ノブに手をやると鍵がかかっていなかったため、ラフィンは構わず中に入ることにした。あいつの部屋に立ち寄っているところを、この廊下を通る他人に見られでもしたらいたたまれないだからだ。
それに、ナロンがこれまで行ってきた行為を思うと、自分がナロンのプライバシーを鑑みる必要があるとは到底思えないということもある。
 入室してざっと部屋を見渡したところ、どうやらナロンは不在のようだった。ハンガーに掛けてあった外套が見当たらないため、おそらくまだ食堂かどこかに行ったままなのだろう。
 人を呼び付けておいて当人がいないとは、随分な奴だとラフィンは眉間にしわを寄せた。
 このままあいつを待つ気にもなれず、もう戻ろうかと再び部屋の中をぐるりと見据えると、ふと、机の上に置いてある瓶が目に入った。
(酒か……?見たことのない銘柄のようだが………)
黒く重々しいボトルに、赤いラベルが貼られている。
 何処産なのかとラフィンはその瓶をまじまじと見つめた。するとそのすぐ横に、何やら小さいメモが置いてあるのに気づく。

『親愛なる貴方へ、愛を込めて。』

ピンクの花の絵が四方に添えられたメモにはそう記してあり、字の感じが優しげであることからも、女性が書いたものと思われる。
(ナロン宛ての贈り物か、恐らく。)
(そういえばあいつは毎月ヴェルジェにいる母親と文を交わしていたな…。仕送りか、昇給の祝いの品といったところか)
再び瓶に目をやると、それは既に封切られた痕跡があった。
それならば構わないかとラフィンはコルクを引き抜いた。小気味良い音と共に上質な葡萄の良い香りが鼻を掠める。
 戦時下でこれほど良い香りのワインがまだ残っていたものかと、思わず唸ってしまうような、馨しい香りがそのワインから漂っていた。
(きっと味も最上級だろう……一口飲んでしまうか)
(いや、だが、………………。)
こんな上物のワインにはそうそう出会えないだろう。今はナロンの所有物とみられるそれは、ナロンにとっても貴重なものである筈だ。
ナロンはまだ部屋に姿を現さない。
悪魔が囁く。
そうだ。今まで俺があいつから受けた仕打ちから考えて、このワインを飲んでやるくらいしてやってもいいはずだ。そうしないと俺の気が済まない。
ささやかな復讐のつもりで、ラフィンはそれを手近にあったグラスに勢いよく注いだ。
グラスを満たす鮮やかな赤色の液体を口にすると、何とも言えないような、まろやかで甘い味が口内を満たしていく。
しばし、ラフィンはその味に酔った。



「あっ」
「!」
突然響いた声に驚いて後ろをふり返る。
開かれた扉の前には、少し驚いた様子のナロンがいた。
「それ、飲んでしまったんですか……?」
「っ、ああ……味見程度にな」
途端にばつが悪くなり、ラフィンはそそくさと瓶とグラスを元の位置に戻した。
ナロンの声の調子から、やはりそれはナロンにとって大事なものだったように感じられた。あまりいい気はしないが、少しはナロンへの報復になっただろう。
責めるなら責めるがいいと、ラフィンは既に開き直ってすらいた。
「そのワイン、……入ってる成分とか見ました?」
「? ……いや、よくは」
「そうですか………うーん……。」
「何だ?俺が飲んではまずいものだったのか?はっきり言えばいい」
「いえ、元から貴方にも差し上げようと思って用意していたんです。……今晩にですけど。」
「ならば問題はないだろう?」
「うーん……そうだといいんですが……」
ナロンの奥歯に物が詰まったかのような言い方がやけに引っかかった。
ワインの味自体は問題無く、想像通り、いやそれ以上に美味だった。
「……ラフィンさんが大丈夫なら、いいかな。」
最後にそう言うと、またナロンが不気味な笑顔を浮かべる。不快を感じ、苦虫を噛み潰したかのような顔をしつつラフィンは話をそらすことにした。
「……それより、用件は何だ。わざわざ俺の部下に伝えてまで、俺に何の用なんだ。」
「ああ……いえ、今日の軍議の席まで一緒に行きませんかと言いたかっただけです。」
「なっ……」
俺を虚仮にするのもいい加減にしろと怒鳴りつけたかったが、あまり朝からここを騒がしくしては自分が気まずい。
わなわなと込み上げる怒りを無理やり押さえ込む。
「僕、何か気に障るようなことでも言いましたか?」
「……とにかく、私用を俺の部下に言付けるのは止めろ。次はただでは済まさないからな!」
「あれ、ラフィンさん嫌だったんですか。部下の方々に僕との関係を知られるのは」
ニィ……とナロンが口角をつりあげる。
「……!」
やはり分かってやっているのだ。こいつは、俺が右往左往するのを想定しては、楽しんでいる。
苦虫どころか虫酸が走る。
「まあまあ、じゃあ、そろそろ時間ですし、行きましょうよ。」
「誰がおまえとなど……!」
「でも、同じ部屋から同じ場所へ行くだけですよ? 断っても仕方なくないですか?」
「っ……、……もういい。だが、軍議室へ着くまでは俺に一言も話し掛けるな!」
「冷たいなぁ……ラフィンさん」
まだナロンが横でごちゃごちゃ言っていたが、俺はこれから終始あいつを無視することにした。
不快なら相手をしなければいいのだ。
さっさとそうすべきだった。






程なくして軍議室へと到着した。
道すがらナロンの配下に大勢出合ったため、あいつが気を取られている隙にうまく離れることが出来た。
 用意された席へ座ると、机に置かれていた書類にざっと目を通した。もちろんあいつの方を見ることもない。
 やがてリュナン公子とオイゲン軍師が現れ、厳かに軍議が開始した。いかに次なる城を落とすか、それが本日の議題となる。
次に攻め入るのはリーヴェの大河を越えた場所に位置する都市ゼムセリア。公子にとってそこは祖国リーヴェランドの領地でもあり、奪還にはかつてない力が込められているのが感じられた。
背水の陣で戦いを続ける我らにとって、一つ間違えれば死の道しか残らないという現状もある。隊長として、そして軍の一員としての重責が、この作戦会議の場で問われるのだ。

 刻々と時間が経過するにつれ、ラフィンはあることに気づいた。最初は何であるか気にも留めていなかったのだが、じわじわと腹部に押し寄せてくるようなそれは、紛れもなく尿意だった。
焦りよりも、何故、という気持ちが大きい。
自らの普段の生活において、朝一度便所に立てばその後昼過ぎまで再び尿意を感じることは滅多にない。
しかし、まだ昼にもなっていないのだ。
今日は特に冷えることもなく、水分もあまりとっていないにもかかわらず。
そう思いつつ、一度認識してしまった尿意は確実に、重みを増していく。
だが、今この場から容易に席を外すことは極めて困難だということは容易く知れる。
まあ、終わるまでは十分もつだろう……と、ラフィンは議論の方へと集中を戻した。
相変わらずのオイゲンの愚策(と言わざるを得ない)に頭を抱えるリュナン。
議論はちょうど平行線のまま、長く停滞していた。
「誰か、良案を打ち出せるものはおらんのか」
自然と軍議室内は苛々した空気に包まれていく。兵士たちの空腹もあいまってのことだろう。
(まずい……)
嫌な予感というか、頭の中で警鐘が鳴り響くような気がし始めた。原因はもちろん定刻を過ぎても終わりそうもないこの状況にある。
それに比例するかのごとく、膀胱からくる疼きは大きくなる一方だ。
全く、何故こんな時に……とラフィンは自らを呪った。
最近の不調続きで、どこか身体の機能がおかしくなってしまっているのではないかとさえ感じた。

(ああ……)
軍議の終了するはずだった時刻が過ぎると、ますますぴりぴりした空気が強まった。
誰もが俯き加減のまま微動だにしないのが、気を抜くとそわそわと身を捩りたくなる程の尿意を抱えたラフィンには辛かった。
「………………。」
耐え切れず、足を組む。
すると数人が便乗して足を組み始めたため、ラフィンはいくらか救われた気持ちになった。最も、彼らは上への不満を発信するための行為であり、ラフィンの目的とは全く異なったが。
我慢するという域に達した尿意を抑えるには、こうせざるを得なかった。
だが、これも何分ともつものではない。
未だ良案は出ていない。どうするか。
このまま誰かが考えを導き出さねば道は無いとラフィンは思い直し、再び、最初に配られていた書類と周辺地図を確認する。
侵攻の問題点は川向こうに配置された大量の投石器にあった。ゼムセリアへ到達するためには大河にかかるリーヴェ大橋を横断するほか手立てはなく、そうすると正面から雨のような投石器の襲撃を受けてしまう。ならば、それを横断前に破壊してしまえばいい。
考えをまとめると、ラフィンは静かに挙手した。止まっていた空気が僅かにざわめく。
「ラフィン、何か案があるのか」
「リュナン公子、俺が竜騎士部隊を率いて投石器を奇襲し、一気に破壊する」
「えっ」
あからさまなどよめき声と共に、無茶だという声が上がる。部下達も驚きを隠せない様子で隊長である俺を見ていた。だがここで引くわけにはいかない。
「危険は重々承知だ。俺もみすみすやられはしない」
「でも、相手は投石器だ。いくらラフィンでも、竜騎士にとって弾に当たれば大きな致命傷になる」
リュナンの言は至極最もな意見だ。だが現時点の兵力を見るかぎり、こうするしか他に手立ては無いと思われる。
「俺では、力不足か」
「いや……そんなことはないよ。寧ろ信頼している。だからこそ、今君を失うわけにはいかない」
(くそっ)
渋るリュナンの態度に、段々と腹が立ってきた。
確かに俺にしては向こう見ずな戦略だ。だが可能性は十分にあると踏んでいた。無謀だ何だと小声で抜かす奴らには、危険なことをわざわざ引き受けてやると言って
いるのだからむしろ感謝されてもおかしくはない。
しかし何より、迫り来る尿意から一刻も早く開放されたいというのが念頭にあった。
誤算だ。これでは余計収集がつかない。

「あの……」
(!)
そんな中、相変わらずおどおどとした態度で手を上げたのは紛れもないナロンだった。
「どうした、ナロン。なにか意見でもあるのか?」
今度はオイゲンが興味深げに尋ねる。
「ええ、あの、僕の率いる第三騎馬隊がラフィンさんの部隊のバックアップをすれば、危険は大幅に減らせると思ったので」
「何、お主、その役目引き受けると言うのか」
「はい。ええと……詳しく動きを説明しますと」
と、ナロンがすらすらと両部隊の動きについて語り始めた。まさかそんなことを言い出すとも思わず、言葉を失ったラフィンはその場に立ち尽くしていた。しかも妙に説得力がある説明に、周りの者も感嘆の声を漏らす有様だ。
「……と、こんな感じです。いかがでしょうか?」
お得意の上目遣いで、これまで眉一つ動かさず聞いていたリュナンにナロンは返事を促した。
室内に忘れていた緊張が走る。
「よし。ナロン、そしてラフィン、君たちに投石器の件は一任するよ。くれぐれも、気をつけて欲しい」
おおっ……と部屋中がどよめいたかと思うと、まばらに拍手さえ起こった。
「それでは、本日の軍議を終了する。皆の者、長らく付き合ってもらい感謝する」
そうオイゲンが言って初めて、ラフィンは自分が解放されたことを知る。と共に、一息つく間もなく尿意の波が襲ってきた。
(っ……!)
早く、用を足しに向かわなければ。
だが目の前には、手放しで危険な場所に向かわされることとなった部下がこちらの指示を伺っている。そう分かっていても、いちいち指示を出すほど余裕があるはずがなかった。
「ラフィンさん」
「、ナ、ナロン……!?」
急に近づいてきたナロンに腕を捉まれたかと思うと、部下もそっちのけで部屋の隅まで連れて行かれた。
足を踏みしめる度に、膀胱が嫌な疼きを伝えてくる。
「ラフィンさん、あなたほどの方がどうしてあんな無茶な案を出したんですか」
「そ、れは……っ」
またしばらく時間を取られると思うと、ラフィンは言葉に詰まった。あまりにも思い出したくない先例があるというのに。
「? どうしたんで………」
「っ…………はぁ……」
ナロンの目の前で平静を装える余裕など微塵も無かった。
思わず膝を擦り合わせてしまい、後悔する。
「あ……。あぁ!……そうだったんですか、ふぅん、なるほど……確かに………」
勘のいいこいつは、やはりすぐに気づいたらしい。ニヤニヤと笑う姿が癪に触る。
「クッ……もう、いいだろ……!俺は……」
「ええ、いいですよ。後は僕が何とかしておきますので、ラフィン隊長はどうぞ」
「それ以上言うな!!」
なりふり構わず叫んだせいで、部屋に残っていた数人が何事かと自分とナロンの方を向く。
しかし憤慨するラフィンの耳元にナロンは笑顔のまま顔を近づけると、その先を囁いた。
「どうぞ、今度は失敗なさらないように……ね」
「!!」
拳を握り締め、今度こそナロンを殴ってやろうと思ったが、そんな力が入るはずも無く。
ナロンが助け舟を出してくれたことへの感謝もすっかり消え、唇を噛み締めたままラフィンはナロンに背を向けると、早足で軍議室を後にした。



じんじんと疼きはじめた下腹部を抱え、ラフィンは軍議室から一番近くにある便所へと急いだ。とにかく、用を足してしまいさえすれば再び平常心を保てる。そう信じて。
しかし思った以上にその道のりは遠く感じた。一歩踏み出す度に膀胱に圧力がかかるため、歩幅は狭く、どうしてものろのろとした歩みになってしまう。尿意を我慢していることを周りに悟られないようにするのに精一杯だった。
只でさえ、さっきあれほど注目を集めてしまって居心地が悪いのだ。
殆どの兵は早々に食堂へ行ってしまったらしく、数えるほどしかすれ違わなかったのは幸いだったが。
そして最後の廊下の角を曲がり、ようやく目的地に到着するはず……だった。

「……………改……装、中……。」
便所へと続く廊下は、大きな張り紙と共に左右に縄が渡されており、進入不可となっていた。
一瞬、頭が真っ白になる。
何とかして行けないかと再確認するも、廊下の両脇にある手すりの隅々まで縄が渡してあるため、無理矢理踏み込むことも出来そうにない。
あと十メートル足らずの場所に求めてやまないそれはあるのに。
(どうする……どうすればいい……!?)
絶望的だった。ラフィンの知っているもう一つの便所は、現地点から一旦中庭へ出て、別の棟……即ち、元来たナロンの部屋のある兵舎に入った場所にある。
だがそこまで持ちこたえるとは到底思えないほど、尿意は重くなっている。
(前にも、こんなことが……)
嫌が上にも思い起こされるデジャヴに苛まれつつ、同じ結果に終わらせないためにはやはり自らが耐え切るより他はない。
「くっ……!」
唇を噛み締め、ラフィンは今来た道を戻った。立ち止まっている猶予はすでにないに等しい。
無事目的地に辿り着くという、ただそれだけを願って中庭に降り立った。

緑豊かなサリア古城の中庭の景色は自然に溢れ、よく手入れされていることもあって昼休みにここで過ごす兵士達の人気も高い。
そんな美しい庭に目もくれず、ただラフィンは石の敷かれた小路を歩いた。
しかし、限界はあっけないくらい直ぐに訪れた。
歩みが次第に遅くなり、足が止まり始める。
(っ、駄目だ……、あそこまで、持ちそうに、ない……)
晴天の下、ラフィンは改めて辺りを見渡した。
遠くで微かに噴水の音が聞こえるだけで、後は木々のざわめきも鳥の鳴き声すらも聞こえない。
 目の前には、背中の真ん中辺りまでの高さを持った茂みが広がっていた。
(そうだ、……ここで………………)
ふと思いついたのは最終手段だった。
しかし、さすがにそれは……と足が戸惑い、進まない。
だが、どうせ結果は同じなら自らに痕跡を残さない方が良いに決まっている、そう覚悟を決めた。
ガサガサと勢いよくラフィンは茂みに分け入った。適当な木に近づくと、僅かに震える手でベルトのバックルを外し、ファスナーを引き下ろす。
そして、下着の中から自身を探り、外気に曝そうとしたとき。
「ん?そこにいるのはラフィン殿か?」
「っ!!」
突然響いた声にラフィンは飛び上がるほど驚いた。
其処まで出掛かっていたものを必死に抑え込み、顔だけを僅かに後ろに向ける。
と、まさしく白鋼の鎧を身に纏った巨体がそこにいた。
「どうなさった?そんな所で……」
「っ、い、や……何でも無、い…………」
自分でも変なところで声が詰まっているのが分かり、焦りで顔が朱に染まっていく。もしこのまま放出を始めていたら、きっと振り返ることは出来なかっただろう。
「気分でも悪いのでは?」
「いや……」
構わないでくれ、と邪険にすることは出来なかった。
何故なら彼はラフィンの元恋人の守役だったからだ。
……運の悪いことに。
「そんなことで、先程のような作戦を提案するとは、些か不安ですな」
「……………………。」
何も言い返せない。放心状態に近かった。
無我夢中で中心を押さえ込んだため今は耐えていられるが、いつとも知れぬ決壊に背筋を冷や汗が伝った。
「大体、あなたはお嬢様のことを……」
ビルフォードの説教節が始まった。
こんなことを俺が聞く義理など毛頭無いはずだが、この守役は聞く耳を持っていなさそうだった。最も、俺も聞いてはいない。
そんなことより、この場を耐えることで頭が一杯だった。
両の手を合わせて中心を握り締め、俯き加減に歯を食いしばる俺は、ビルフォードの目にどう映っているのだろうか?
「聞いておられるのかっ?ラフィン殿!」
「う……、…………っ」
まともな返事はできず、呻き声のようなものと歯軋りで何とかごまかした。
「……もういいでしょう。貴方がどうあれ、私はシャロン様に近づく輩には容赦しないということを覚えておいて下さい」
「………………!」
顔を上げると、ビルフォードは姿を消していた。
ようやく解放だ。
恐る恐る手を放したが、強く押さえすぎたせいかそう易々と用を足せるような具合では無くなってしまっていた。
まだ、あと少しなら持つかと思い直し、より一層の力を込めて別棟へと足を進めることにした。
やはり、野外で放尿するには明るすぎる上、再び途中で声でもかけられたらたまらない。
「はぁ……はぁ…………」
息が荒く、全身に脂汗が滲んでいる。
本当に、雲ひとつ無い晴天が憎かった。
自制がきかない、この身体も。
「っ……ぅ…………く…………」
よたよたと壁に寄りかかりながら、ほんの一瞬、一瞬ごとに内腿に力を入れるのを繰り返す。それでも耐え切れない波が押し寄せた時は、辺りを伺うと思い切って手をやりその場所に抑え込んだ。
まるで小さな子供がするような動作を繰り返しながらも、ラフィンの目にようやく別棟が姿を表し始めた。
(もうすぐ……よし……これなら………)
その時、またしても後ろから誰かの声がかかった。

「あら、ラフィンじゃない!珍しいわね、貴方がこんなところにいるなんて」
「っ、シャ、ロン……!?」
それは絶対に聞いてはならない声だった。
「散歩かしら?よければ、私も同行していい?」
「っ、…………」
断ることが出切るはずが無い。しかし、シャロンに今の自分の現状を知られることは時間の問題だった。
つくづく運の無さを呪う。
まさか昔の…いや、今も思いを寄せている女に会うなんて。
「あ、あ……だが…………俺、は……」
「あ、そうそう。前からあなたに渡したかったものがあるの。ちょっと私の部屋まで来てもらえないかしら?」
無邪気な彼女。その笑顔が胸に刺さって痛い。
「………あ、ああ……」
無理に作った顔だったが、それでもシャロンはまだラフィンに対してまだ何も疑いを持っていない。
シャロンにとっては、ラフィンと再び話せることこそが重要であり、彼女自身まさかラフィンがそのようなことに苦しんでいる最中だとは、夢にも思っていなかったからだ。

ラフィンの頭は一気に混乱した。
このままシャロンの部屋へ行けば確かに便所を借りることも出来るかもしれない。しかし、遠すぎる上、時間がたてばたつほど昼食を終えた人々でここや廊下が騒がしくなる。
やはり適当な口実を作って逃げなければ、取り返しのつかないことになるのは目に見えていた。
……こんなことなら先程ビルフォードなどに構わず用を足しておけば良かったとさえ、思えてくる。
「こっちよ、ラフィン」
「待っ、…………っ……」
「?」
軽やかに先導するシャロンの後ろを、腰を引きつつ呼び止める。断らなければ。
時折妙な動きをしているラフィンに、さすがに怪訝な顔をシャロンは浮かべた。
「ラフィン、あなたどこか具合でも……」
「ち、違う……気に、するな」
じくじくと痛みさえ感じるそれを抱えたまま、ラフィンは必死でそう告げるしかなかった。
シャロンは立ち止まり、不安そうにラフィンを見つめている。
「…………ぅっ」
歩みを止めたせいで波がぶり返し、思わずラフィンは膀胱の少し上の位置を手で押さえてしまった。
「ラフィン、やっぱり具合が…!シスターの処へ行かないと……」
それを腹痛のせいだとシャロンは思ったらしく、慌ててラフィンの傍に身を寄せた。
ラフィンはそれを反射的に避ける。
「っ、だ……、丈夫、だっ……っ!」
「でも」
「っあ……!!」
その時ラフィンは僅かに感じた。ジュッ…と先端から熱いものが滴り、下着を湿らせたのを。
「あ!……ぁ、……ぁ…………!」
じわじわと漏れ出したそれを食い止めるため、無意識のうちにラフィンはそこを両手で強く抑え込んでいた。
「えっ!?ラフィン、あなた、どうし……!?」
もちろんその行動もシャロンに全て見られている。
だが、もう限界だった。
「……見、見る……な……っ…………も……」
涙で滲み始めた視界に、ふっと影が落ちた。
「ラフィンさん!」
どん、と肩を叩かれるのと、耐えに耐えた堤防が決壊するのはほぼ同時だった。

「あっ……あぁあっ……アァ………………ッ!」
ジュワワ…と中心を押さえる両手の横から、みるみるうちに濡れた染みが広がっていく。
やがて、ラフィンの手の隙間から黄色く色づいた液体が零れ落ちた。
「キャアァァァッ!??ラフィンっ、!?」
目の前で繰り広げられるあまりの事態に、シャロンは叫び、立ち尽くんだ。その声に反応して周囲にいた幾人かが振り返る。そしてすぐにラフィンの格好とその股間の染みに気づくと、誰もが驚愕の表情となった。
「ぁっあ………!ぁあ、あぁっ!!」
ラフィンが立っているのは柔らかい土の上ではなく、石畳の敷かれた道の上だった。
おかげでじわじわと滴った尿は、足元にくっきりと跡を広げ、容赦なく水溜りを形成していく。
(そんなっ……まだ……っ…)
バクバクと音を立てる心臓を抱えながら、ラフィンは先ほどより強く手に力をこめてその噴出を抑えようと格闘したが、一度開放を許したそこはもはや壊れた蛇口のようで、どれだけ力を入れても流れを止められなかった。
(駄目……駄目だ!駄目だっ!……っあ)
眉間にしわが寄るほど瞳をきつく閉じ、歯を食いしばる。
しかしそれは長くは続かなかった。
僅かに息を吐いた瞬間、抑えていた圧力が反発するように再び小便が両手にドッと溢れた。そのとき感じた、絶えに耐えたものを放出する快感で、みるみる力が抜けてしまう。
(……出、……で……る…………ッ!)
自覚と共に、断続的に落ちるだけに留まっていた水滴は速さを増し、連なり、筋になった。
それが石床を叩きつけて落ちる音は、紛れもない失禁を示していた。
「っは…………はぁ…………っぁ…………」
顔が火を噴いたように熱い。
しかしラフィンにとってそれはどんな形であれ、今までの苦渋からの解放には違いなく、きつく寄った眉間の皺は、息をつくごとに僅かに緩んでいった。
さらに、手の隙間から漏れ出す尿が服に染みていくたび、妙な高揚感が全身を駆け巡った。
それを甘受すればするほど前を抑える手の力が緩まり、大きくなった指の隙間からはついに布地を通して小さな奔流を見せてしまっていた。
「うぅっ……く……!…も……止ま……」
我慢を重ねたせいだろうか、その勢いはいつまでたっても弱まることがない。
あまりに長いそれに焦り、一刻も早く終わってほしいと再び力を入れて流れを遮る。
しかしほんの少し力を抜けば、それはまた最初のように勢いよく尿道から吹き出してしまった。
「あっ、あ……!」
その感覚に驚き、再びその動作を何度も反射的に繰り返したことで、プシャッ、プシャッと緩急の付いた水音が辺りに響く。
それがかえってラフィンの困惑をあからさまにし、見るものの目を一層釘付けにした。

「ぁ……ぅ…………ぅうっ……」
ブルッ…と大きく身震いすると、ようやく布地は最後の一滴を落とし終え、周囲の一切の音が消えた。
静まり返る中、一人大きく息をつくラフィンは、全く身動きが出来なかった。
ズボンは、前面の膝から尻の方まで濡らしてしまっていることが変色の加減から見て取れる。ラフィンの両手も自らの尿でぐっしょりと濡れそぼって、袖口まで浸水しそうな勢いであった。
その中心が冷えていくにつれ、逆に全身が燃えるような羞恥に包まれていく。
すぐ目の前にはシャロンが存在していて、さらにこの失態の一部始終を見られてしまったということをまざまざと感じ、たまらずラフィンは深く俯いた。
「……………………。」
シャロンは正に絶句、である。
ほんの一分程度。だが、その時起こったことは彼女には衝撃的過ぎた。元、ではあるが、愛していた男が眼前で、しかも城の中庭で失禁など……理解しようにも、出来なかった。

そんな無言の場に、異様なほどあっけらかんとした声が響く。
「あ、あーあ、ラフィンさん、またですか?」
「えっ」
「……っ…………」
またという言葉ををやけに強調され、ラフィンは唇を歯噛みした。
シャロンも更なる事実に、信じられないといった目線を送っている。
「しかも今度は、貴方の大切な人の前で……おもらししちゃいましたね」
「……………………」
ラフィンはもうわなわなと全身を震わせるだけで、何も言い返さなかった。
俯いているためよく分からなかったが、顎に二筋、汗とは違う雫が伝っている。
「まぁ、いつまでもこんなところにいても仕方ないですよ。僕が後始末してあげますから、さぁ」
そういうとナロンはラフィンの肩を抱き、元の棟へ行くようにと促した。
ラフィンも中心を僅かに抑えたままだった手をおずおずと離し、ナロンに寄りかかるようにして一歩を踏み出す。
「ちょっ……待って、あ………」
ラフィンが歩を進めるたび、ブーツに溜まった尿が地面に染み出してグシュグシュと音を立てるのを目にし、シャロンは言葉につまって立ち尽くしてしまった。
「……あ、シャロンさん、そしから周りの皆さん。お願いですからあんまりさっきの出来事を他の方に広めないであげて下さいね。ラフィンさんがここに居られなくなってしまいますから」
「……………………。」
そのナロンの言葉で、ラフィンはぼんやりとシャロンの他にも数人が自らの失態を目にしていたことを知った。
だが、それも今となってはどうでも良くなっていた。
自分ひとりだけ闇に突き落とされたような心地で、ナロンに寄りかかっていた。
 何故、こんなことになってしまったのか、それすら考えられないほど思考がぼやけてきた頃、ふとナロンが耳元で囁いた。

「……貴方の朝飲んだワイン、あれは、実は正式なワインではないんですよ」

「こういう遊びがしたいときの為に作られた、利尿成分のたっぷり入ったもので……、…………」

「………………メモ見たでしょう?…………貴方のことですよ。親愛なる?…………」

最後まで覚えてはいない。
あいつの行った後始末の間に、すっかり忘れてしまった。


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