暗躍する悪意

2016年に書いたモブ男プロデューサーに利尿剤飲まされて生放送に出される弥代を樹が助けに行く話です。
イツヤシはデキてませんがキスはあり。
がっつり小スカ描写(我慢~後始末まで)ありますので要注意。
お好きな方は楽しんでください^^



ダイバーTVスタジオ――

 その中央に位置するメインステージにて仕事の演出確認と音合わせを終えた弥代は、控え室へ続く夕暮れ時の廊下を一人歩いていた。
 このあと数十分で生放送の収録開始時刻だったが、弥代の衣装はまだ普段と同じ紫のスーツ、髪のセットもこれからである。
 コツコツと磨き上げられた黒の革靴が規則的に音を鳴らす途中、ふと、背後から弥代を呼び止める野太い男の声が響いた。
「久しぶりだね。フォルトナエンタテイメントの剣弥代君」
「……ああ。お久しぶりです。プロデューサー」
 振り返った弥代にとって、そのでっぷりとした貫禄を湛えるスーツ姿の男は見覚えがあった。以前、自らが属していた芸能事務所のチーフプロデューサーの一人である。もっとも、弥代と共に仕事をするのは今回が初めての相手であったが。
「世間を騒がせる今話題の俳優であり、一流のアーティストでもある……。クク、その整った顔立ち、スタイル、久しぶりに見ても惚れ惚れするねえ。今日の生放送、よろしく頼むよ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 今日の仕事の企画と構成を務める男に弥代は父に処世術として叩き込まれた営業スマイルを見せ、形だけの挨拶をする。人気絶頂のマルチタレントに対して胡散臭いおべっかを並べるその男とは、それだけの間柄のはずだった。
「ただし……条件がある。君には、出演前にこれを飲んで、ステージに出て欲しいんだ」
 ふと、男が栄養ドリンクに似た小さな瓶を弥代へ差し出してくる。
「……これは?」
 ふふふ、と自らと正対する男の表情が急に下卑たものへと変わるのに気付いた弥代は、何とも言い難い嫌悪感を覚えた。
「なあに、身体の代謝を良くする栄養剤だよ。健康に良い。ただまあ……少しトイレが近くなってしまうかも知れないねえ」
 男の言葉は、同じ芸能界に身を置く者としては耳を疑うようなことだった。これがイドラスフィアのミラージュ相手であれば、今の一瞬で斬り伏せていただろう。
 だが、相手は残念ながら人間だ。
「………拒否すれば?」
「そうだなあ。君の移転した新しい事務所、はっきり言ってまだまだ芸能界では矮小な存在だ。仕事の話も……減ってしまうと後輩たちが困るだろう? まあ、君は元いたウチの事務所に戻れば良いだけの話だがね」
「…………」
 男の持ちかけた話の真の意図を理解した弥代は、無言で腕を組んだ。
「君の元付き人も寂しがっていてね……弥代君が芸能に関する事以外は何にも出来ないってのを、身を以て分からせたいとの希望もあってね。……まあ、君がみっともなく失敗するところなんて僕もファンも見たくないからね。これはオレたちに相談も無しに電撃移籍した君への罰だよ」
「………。言いたい事はそれだけか?」
「! ヒィッ……?」
 さっきまでの貼り付いた柔和な笑みは跡形もなく消え、ギラリと氷のように冷たくなった弥代の瞳に射抜かれた眼前の男は、思わず背筋を凍らせた。同時に、男の手にあった小瓶が滑り落ちる。
 弥代は自らの放つ威圧感に仰け反る男を見据えながら、リノリウムの床に硬い音を立てて転がった例の飲料を手に取ると、無言で口をつけた。
「……な、本当に、飲ん………!?」
 男の算段では、芸能界で生きる事しか頭にないあの剣弥代ならば、このような持ちかけに素直に応じるとは思ってもいなかったのだろう。それで難癖をつけ、体良く元の鞘……元いた事務所に収まってもらうつもりでいたのだ。
 しかし、瓶の中身をすっかり飲み干した弥代は、そんな男の思惑に従う気など微塵も無いという事を、行動を以て知らしめた。
「……フ、フン? 知らないからな、お前なぞ……? せいぜい生放送で恥をかいて、移籍の代償をその身をもって味わうがいい?」
「誰にものを言っている……? 二度と俺の前に姿を現わすな、下衆が」
 まるで聞く者の臓器の奥底まで凍らせるような声でそう言い放つと、弥代は踵を返した。
「くッ……! このオレ様をコケにしやがって……芸能界を舐めるなよ、若僧が……! 絶対に、……ずぇったいに、後悔させてやるからな……!」
 しばし恐怖で壁にへばり付いていた男は、弥代の姿が見えなくなったのを機に毒づくと、慌ててスタッフルームへと駈け出して行った。

(ふむ……これは……少々、分が悪いかもな)
 その様子の一部始終を見ていたナバールが、珍しく苦々しい表情で呟いた。

     ◇◇◇

 すっかり日の落ちた頃、ついに大人気音楽番組、エンタ・ステーション――Eステの生放送特番が開演した。
 今夜の目玉ゲストとして、ヒットチャートの常連であるあの剣弥代が出演するとあってか、満員の観客席に集ったファンは期待に割れんばかりの歓声をアリーナから上げている。
 その真正面、番組のテーマBGMの鳴るさなか、ガラスが砕かれるような鮮烈な効果音と共にドミナントプリンスの衣装を身に纏った弥代が現れると、ステージ上のスポットライトにその姿が照らし出された。
 司会者が弥代の紹介をするが、突然の登場に興奮した観客の声援にかき消され殆ど聞こえない。
 と、ハンドマイクを手にした弥代が口を開いた。
「剣弥代に酔いしれろ……」
 剣弥代が喋る、その声を聞き逃さんとする観客がまるで示し合わせたかのようにピタリと歓声を止めた為、その瞬間はまるで刃のような鋭さを持ったプリンスの美声だけがスタジオ内を支配する。
 後に続くのは、悲鳴にも似た黄色い声。
 それを確認すると、弥代は裏地に鳳凰が刺繍された長い紫のマントを翻して、ステージ横の弥代のためだけに設置された雛壇へと移動する。
 番組は全てノーカットで生放送されているため、勿論フォルトナエンタテイメント事務所の大型モニターにもその様子が映し出されていた。
「ハァ~、ヤシロさん、やっぱり格好いい~……」
「そうだな。さすが、一流のパフォーマンスだ」
 モニターの前でつばさと共にそれを見ていた樹の耳に、不意に現れたクロムがそっと語りかけた。
(……おい、イツキ………)
「クロム?」
(シッ……お前一人で、大至急イドラスフィアへ来てくれ)
「えっ、わ、分かった」
 いつも張りのある声で語りかけてくるクロムが囁き声でそう言っているのだ。何か重大な事が起こったのだろうと察知した樹は、咄嗟に動いた。
「ツバサ、悪い、クロムに用事があるのを忘れてた」
「ええっ、クロムに?」
「すまない、男同士の約束なんだ……悪いけど、ブルームパレスへ行ってくるよ。たぶん番組が終わるまでには帰って来れると思うから」
「そっかあ……仕方ないなぁ。じゃあ、今度また二人でパフェ食べに行く約束して!」
「それくらいお安いご用さ。じゃあ」

「いいか! 剣弥代の歌は最後だ! 後回し? さっさとホン書き換えろ!」
「で、ですが、観客は剣に早く歌って欲しいと楽しみにしてて……」
「だからこそだよ! 焦らして焦らして、視聴率を稼ぐんだッ?」
 ステージ裏では、先ほどの薄毛の巨体スーツ男が現場のアシスタントディレクター達に檄を飛ばしていた。そう尤もらしいことを言いながら、本当の狙いは勿論そうではない。
(クックックッ……そろそろ薬が十分効いてきてるんじゃないのかぁ剣弥代……もうまともに立ち上がれないくらいには………。この先、見ものだな)
 男の見つめる先には、ADに常に弥代をピンで映すよう言いつけたカメラのモニターがある。番組が開始してそろそろ三十分は過ぎただろうか。だが、未だに画面の中の弥代は整った仮面のようにクールな表情を見せたまま、微動だにしない。
「チッ……。オイ、司会者に剣弥代へインタビューさせろ。画を動かせ」
「えっ、あ、ハイ……」
 男の傘下にあるディレクターは、言う通りにカンペを書いていく。『今の気分は』、『さっきの曲の感想は』、など、テンプレでないアドリブ回答を求めるような質問を次から次へと用意させる。
(我慢するのに気を取られて言い淀んだりすれば、アイツのプライドが許さんだろうなぁ、ククッ……)
 他事務所のアイドル歌手が歌い終わると、早速カンペを出させる。突然のトークコーナーが始まったことで、また会場の観客が湧いた。質問の対象が剣弥代であると知った後は、それに黄色い声が追加される。
「ええ~っと、剣弥代君。さっきからクールにキメてるけど、今の気分はどうだい?」
 サングラスをかけた司会者が戯れに話を振る。
「フッ……俺に相応しい、心地好い空気だ………」
 キャア――ッ! と、弥代が一言発する度に、声援が響く。その硬質な中に甘さのある低い声は、向かい合って座る他の女性出演者さえ目を見張り、うっとりとした表情にさせるほど魅力的だ。
「じゃ、さっきの曲の感想を……いかがかな?」
「素晴らしい……。俺と、このステージを共にするのに足りた音楽だった。だが、声の伸びがまだまだ足りないな……。もっとこの俺を、酔わせるような声を出して歌ってみろ」
 先ほどのアイドルに向かってそう話す弥代に、焦りや異変は微塵も感じられない。その様子に、舞台裏の男は只々と苛立ちを募らせていた。
(……ック……。ならば……)
「オイ、剣が酔わせて欲しいらしいからな。酒でも差し入れてやれ」
「ええっ、でも、剣さんまだ未成年ですよ……。さすがにマズいんじゃあ……」
「葡萄ジュースだと言えば見てる側には分からん! ワイン! さっさと用意しろ?」
「はあ……」
 男の更なる下衆な計らいで、グラスに並々と注がれたワインが弥代の元に届けられる。
「中身は葡萄ジュースですから。どぞ、遠慮なく」
「ああ。……感謝する」
 司会者が勧めるそれを手に取った弥代が、グラスをゆるりと回す。並々と入っている液体が、揺れる。
「………」
 その時グラスから立ち上る香りで、既に弥代は気付いていた。これはジュースではなく、本物のワインである事に。
 揺れる赤黒い液体の向こうに、あの男の悪意が透けて見える気がして、沸々とした怒りが再び胸の奥に燻る。
(飲むな、ヤシロ。止めておけ)
 頭の中でナバールが囁いた。それを次の出演者の持ち歌の伴奏のように遠くに聞き流す。
 ナバールに構わず口を付けて呑み込んだそれは、やたらと渋く苦かった。だが、存外、嫌いな味ではない。
(俺に指図するな)
(フッ……命知らずなヤツめ……。まあいい。その内イツキが何とかしてくれるだろうしな)
「……?」
 ガチャン、とそれは一瞬だった――ステージの方を見ていた観客は気付いていないが――弥代の手からワイングラスが滑り落ちたのは。
(……すまん。却って動揺させたな)
「………」
 背後のナバールを睨みつけるかのように、弥代の眼光が光った。衣装こそ汚さなかったが、雛壇の下には粉々になったグラスの破片がステージの光を受けて煌めいている。
「ハハッ! おい、一流がとんだ粗相だな! ああ、片付けなくていいぞ、下にスモーク焚いてるから見えんだろう」
 ここにきて漸く見せた弥代のリアクションに、満足そうに男がせせら嗤った。やっぱりあの薬はちゃんと効いているのだと、席巻しつつ。
 弥代の出番は最後、この二時間枠の特番が終わる直前にセッティングされている。
(さあて、無事に耐え切れるかねぇ。まあ、無理だろうな。限界になったら、また適当な事を言って退場するのがオチか………)
 ――既に生放送が始まって、一時間が経過しようとしていた。

 蒼井樹。ナバールはその名を口にした。つまりは、話したのだろうか。今のこの状況に至るまでの経緯を。つぶさに。
 余計な事をされたと、苛立つ弥代はロンググローブの中の拳を指先が白くなるまでギリリと握り締めた。
 ワインを口にしたせいか血液の巡りが良く、いつも冷たいはずの自らの頬がやけに熱く感じて、気分が悪い。
 更に体内に新たに追加された水が、身体の中心を下っていくのが分かる。それを堰き止める内蔵器官は、もうはち切れんばかりに膨らんでしまっているというのに。
 だが、そこから重く響くような痛みを我慢するだけならば、永遠でも耐えられる修練を弥代は積んでいた。芸能人として、それは物心ついた時から言い聞かせられ、カメラの前で決して侵してはならないタブーだということも。
 しかし今、ナバールから蒼井樹の名前を聞いただけで、面白いくらいに弥代の身体は冷静であろうとする意識に反抗し、悲鳴を上げているのが紛れもない事実だった。
 これは仲間に縋ろうとする、人としての本能なのだろうか――。
「下らん……」
 小声だが、感情が口をついた。と同時に、ずくん、と大きな衝撃が下腹部を襲う。
 ギリ、と唇の内側……あくまでカメラには映らない箇所を噛み締めてそれをやり過ごす。薄く血の味が口に広がるが、それで気が紛れるならば良かった。
(ヤシロ……もう少しの辛抱だ)
(黙れ……!)
 見かねたナバールがまた声をかけるが、弥代は強引にそれを遮断した。感覚の全てを共有しているミラージュにとって弥代の様子は手に取るように分かるナバールですら、それからはもう弥代の声が聞こえなかった。それだけ、パフォーマが弱まっているのだ。
(……やはり、イツキを呼んでおいて良かったな……)
 この状況になることを予想していたかのようにナバールはそう呟く。それを最後に、長髪のミラージュは半透明の霧となって現世からフェードアウトした。
(絶対に……耐え切ってみせる……俺は……)
 そんな弥代に、真っ白なスポットライトが当たる。

「さあ! それでは皆様お待ちかね~、剣弥代君にステージの準備をお願いいたします!」
 司会者が浮かれたようにそう促すと、番組開始時から全く衰えることのない観客の声援が続く。
「………フ……」
 それに応えるべく、口角を無理矢理上げて立ち上がろうと足に力を込める。が、これまで以上の激しい痛みがズキリと体内に響いた。
 弥代がその時見せた顔に、舞台裏の男はニヤニヤとご満悦だった。
 眉根を僅かに寄せて、仄かに上気した頬、紅をさしたように赤い唇……。そして、氷のようだった瞳が一瞬、ほんの一瞬だけ揺らいだのを。
 クールなはずの美形芸能人が見せたその一瞬の表情は、まるで性の解放を懇願する憐れな娼夫のようではなかったか。
「オイ、セッティング、なるべく長引かせておけ、歌うのは一番だけでいい。その分、マイク音量は大き目にしとけ!」
「ええっ、で、でも、もう進行時間ギリギリで……!」
「構うか! 剣弥代の歌で生V終わり! 司会の挨拶も、全部カットでやれ! 焦らせ? それで最高の視聴率が取れるんだよォォ?」
 事実、男の言う通りこの歌番組が始まってからの視聴率はうなぎ登りであった。
 剣弥代が歌うのを待ちに待たされたテレビの前の視聴者は元より、スタジオにいる観客たちの期待による熱狂もピークであった。
「早くしろ! スタッフ?」
「早く歌声を聴かせて~! 弥代様――?」
 ついにはそんな声が、弥代の耳にも届いていた。
 このステージに入った時に比べて鉛のように重くなった両脚を、そうは感じさせないように動かして中央のマイクの前に立つだけで、常人では考えられないほどの忍耐力を必要とした。
 気を抜けば震えそうになる脚の位置が決まると、同じく長い腕が眼前のマイクスタンドに伸ばされ絡みつく。その動きが、いつもより散漫になってしまうのはもう避けられなかったが、逆に艶かしいそれは多くの女性ファンを魅了した。
 その美しい皮一枚隔てた体内の痛みは、もう下腹部に留まらず胸の上にまで押し寄せて、危険だという痛みを脳が伝えている。そんな弥代を鼓舞するかのように、観客が弥代の名前をコールする。その音圧が弥代の身体を包み、体内の水分を無用に揺らすというのに。
 弥代の息は、いつの間にか上がっていた。ただ、ひたすらに前奏が流れるのを待つ。
 長い。
 時間にして数分のはずのこの時が、まるで永遠のようだった。
(……絶対に……絶対にだ…………)
 と、足下を流れていたスモークが引いた。
 背後の電子パネルが弥代だけを照らすスポットライトに変化する。
 漸く――それは始まったのだ。

 ――砕け散る限界を 超えて
覚醒する世界は 俺を照らす――

 大音響で弥代の歌声がステージ、会場全体を包み込むと、観客は一瞬、響めき……そして、歓喜の声を叫んだ。 あまりにも弥代の声が、いつもより艶っぽく、色香を含んでいたからだ。
 
 だが、そのワンフレーズが終わると共に、華麗なダンスステップを踏み始めるはずの弥代は突如としてステージ上から姿を消した。
 弥代の背後の電子パネルに雷光が走ったと思うと、大きなスパークが弾けて視界の全てを激しい音と光に包み込んだからだ。
「かっ、火事だ?」
「えっ、何? アクシデント?」
「イヤ――ッ? 弥代様――?」
「スタッフさっきから何やってんだよ?」
 光が消え、我に返った観客たちが、ステージにもくもくと上がる灰色の煙を見て激しい怒号や悲鳴を喚き散らす。それを見ていた舞台裏の男の顔は、みるみるうちに青ざめていった。
 これも全て、生放送されているのだ。
 男の足下のモニターは、番組が終了するまで誰も居なくなったステージをただ映し続けていた。

     ◇◇◇

「ヤシロ? 大丈夫か?」
 当の弥代も、この現状に頭が追い付いていなかった。
 気付いた時には、樹の腕の中に居たのだから。
「よしっ……ここまで来れば、ひとまず……」
「ッ……? 蒼井樹……何故、邪魔をしたッ?」
 ステージ袖の奥、大道具が雑多に置かれた埃臭く暗い小部屋の中で、樹と弥代の声が同時に反響した。
「そ、それは、ヤシロを助けるために……!」
「俺がいつお前に助けを求めた? お前がした事は、どういう事なのか分かっているのか?」
 激昂する弥代に、樹は何も言えなかった。弥代を救う為とはいえ、結果的に弥代のステージを駄目にしてしまったのは紛れもない事実なのだから。
「ご、ごめん……でもっ、ヤシロの事を心配して……」
「……心配だと? ステージの上で、演者は己の力しか信じない。俺はどんな窮地にあろうと、これまでと同じように今日のステージを成功させるつもりだった。それが一流の魅せるパフォーマンスだからだ! それをお前が抜け抜けと水を差し……ッ?」
 尚も樹の腕を振りほどいてステージへ戻ろうとする弥代の両脚が、勢いのあまりぐらついた。
「や、ヤシロ! 危ない!」
「! 俺に触る……なッ! ………?」
 グ、と力の入った弥代の腕を樹が無理に引いたせいで、バランスを崩した身体の制御が利かなくなる。
「………ぁッ……!」
 再び力を入れて立て直そうとするも、身体の中心から出口へ向かってこじ開けようとする体内の水分を押し留めるだけの力は、弥代の中に残っていなかった。
 砲身の先端から暖かいものを下着に一雫、垂らしてしまった。その熱く湿った感触を感じた途端、身体の震えが止まらなくなる。
「………っ、あ、……? ……あ………ぁ……!」
 腹の中心に無数の針を刺すような痛みの中に、同じく針穴のように小さな穴が開き、その穴がチクチクと増え広がるにつれ全身の力が抜けていく感覚が下腹部を支配していく。まるで電撃を食らったかのような、ままならない痺れが……。
「ヤシロ! とにかく先にトイレ、行こう……連れてってやるからっ……」
 明らかに様子がおかしくなった弥代に起こっている事態を思い出した樹が、コンクリート剥き出しの冷たい壁に手を付いて震える弥代の肩を引く。しかし肩当てから下がる銀の装飾がシャラシャラと鳴るばかりで、中腰になったままの弥代はピクリとも動かない。
 樹が声をかけた時にはもう、遅かったのだ。
 ぱた、ぱたと水音が落ちる音が無慈悲にも狭い部屋の中に反響する。ギョッとした樹の目が弥代の長いマントの中を覗くと、キラリと光る水滴が弥代の足と足の間に落ちる瞬間を捉えた。
「ッ………ふ……、ゥッ……! ……見る、な……?」
 確かに、それは見てはいけないものなんだろう。芸能界における禁忌。放送事故。そんな言葉で済まされるのだろうか。
 あの稀代のトップアーティスト、弥代が、自分の腕の中で失禁しているという事実が………。
 だが、弥代は、まだ諦めていなかった。白い皮のグローブに爪を食い込ませ、必死に壁と、もう片方は小さな丸い染みの出来たズボンの下腹部を握り締めている。樹の腕に埋めているため表情は見えなかったが、身動ぐ度にオールバックの髪が乱れて、はらはらと涙の代わりに髪の束が流れ落ちていく。ただ見ているだけでも辛くなるような、そんな姿が樹の目に映る。
「弥代……もうここで出して大丈夫だから………そんなに我慢したら身体に悪いぞ………」
「ック……! うるさい……黙ッ……!」
「誰にも言わない。泣いてる……のも………」
「ッ……! ……ッ、ふ、……ぅっ、……れ、が……」
 弥代の長い睫毛の際に溜まっていた熱い涙の粒が、ツ、と頬を伝い落ちた。反論する言葉が言葉にもならない。
 頭の中は腹の痛みと、僅かな綻びから来る甘美な痺れで、ぐちゃぐちゃだった。
「力抜いて、俺が支えてるから……」
「ぅ、ぅ……ゃ、嫌………だッ……!」
 樹が弥代の下腹部を抑えている方の手にそっと手を添わせ、優しく覆う。暖かい他者の温もりが、弥代の絶望に凍る氷の心を溶かしていく。
「着替えもあるし心配要らないよ。早く楽になれ、ヤシロ」
「ぅっ…………ぅぅっ……」
 それでもフルフルと首を横に振る弥代に、樹は外の騒ぎが大きくなっていることを懸念し、もうこれ以上待ってやれないとすまなく思いながら、その魔法の言葉を発した。
「ごめん。」
「――――? ………ッア――――――?」
 極端に弱めたつもりのジオの雷光が手の平に煌めく。それで、最後だった。
 電流を直に受けた弥代の手が弾みで腹から剥がれると、堰き止めていたダムが決壊するように、股座から水流が一気に溢れ出た。白いスラックスが、みるみる濡れて色を変えていく。
「ぁッ……ァ………! ……ァ…………?」
「ほら、今、下げてやるからっ……!」
 もう完全に無意味であるほど下肢はぐしょぐしょに濡れていたが、それでも漏らし続けるよりは……と樹は弥代の長めの上着についた豪奢な金の前合わせに手をかけると、留め金を外しにかかっていた。
「ァ゛ア………ァッ、ア゛……… ぅ、………ぁ……」
 樹の手の動きを阻止しようとしても、耐えに耐えたものが解き放たれまるで力が入らない身体は、立っているのがやっとだった。熱い液体の温みが、長い脚を伝って履いているロングブーツの中にまで溜まっていくのが気持ち悪くて仕方ない。激しい雨音のようにバチャバチャとコンクリートに叩きつける水流が音を立てるにつれ、身体が頽れてしまいそうになる。
 それは超一流であるはずの自分が、まともに呂律すら回せないほどの衝撃だった。
 と、ようやく弥代のパンツの上端を中の下着ごとつかんだ樹は、それを一緒くたに引き下ろした。
「ほら、全部、出しちゃえ。な」
「ッふ、………ハ、………アッ、……アアッ?」
 ジョロ……とさっきまで不規則だった水流が一本の放物線になり、加速度的に羞恥と快感がない交ぜになった感覚と共に闇に広がっていく。
 暗がりの中で僅かな光を反射させる細い滝のようなそれは、仄かに湯気を立てて、きらきらと輝く飛沫と共にムッとした独特の臭いまで部屋に広げていく。
 もう嫌だ、消えてしまいたいと心の底から叫びながら、弥代に出来たのはただ樹に抱えられて、嗚咽交じりの涙を流す事だけだった。
「こんなに我慢して、辛かっただろ。ゴメン、もっと早く助けられたら、こんな事には………」
 やっと水流が勢いを衰えさせた頃、しばらく無言だった樹が口を開いた。言葉尻が、なぜか震えている。
「……許さない。ヤシロを、こんな辛い目に合わせたヤツを………!」
 それは彼の怒りによるものなのかと、混濁する意識の中で弥代は思案した。もしくは、一流にあるまじき失態を犯した自らへの憐憫か。
「幻、滅………した、か………?」
 フ、と自嘲気味に笑ったつもりの顔が、くしゃりと歪んでまた新たな涙を滑らせてしまう。そんな姿しか見せられない自分が情けなくて、嗚咽を飲み込むように弥代が叫んだ。
「……お、お前がッ……! ステージに、来なければッ!……俺は、一人で……耐えられたッ? ………」
「うん、……ゴメン。結果的にそうかも知れない。俺を恨むなら恨んでいい。でも、このことは誰にも言わないから。絶対に……約束する。それに俺はただ、ヤシロを助けたかったんだ」
「………ぅ……」
 樹にそこまで言われ、興奮する自らの身を宥めるように震える肩を後ろから抱き寄せられれば、もう強がる事など出来なかった。
「ヤシロ……」
「…………」
 樹に抱かれていると、じわ、とまた涙が溢れ出て止まらない。鼻の奥がツンと痺れて、堪らずしゃくり上げた。
 それすら、樹に見られている。子どものように泣く自らの姿を。
「よしよし……って、ゴメン。俺がこんなことしてたらヤシロのプライド傷つくな」
「こんな………無様な姿で……プライドなど、あるかっ……。砕け散って………粉々だ……」
「じゃあ俺が、元通り一流の格好良いヤシロに戻してやる」
 樹はそう言うと、やっと体内の水分の放出を終えた弥代の背中を優しく撫でながら、濡れていない方の壁に身体を預けさせる。
 と、弥代はそのままズルズルと床に膝を折った。
「着替え、持って来る。あ、でも先にシャワー使った方が良いかな………。スタジオの、こっそり借りるか?」
 樹の問いに、顔こそ背けていたが弥代はコクリと頷いた。
「オッケー。手配してくる。任せて」
 バタバタと靴音を響かせながら、樹は大道具部屋を足早に出て行った。

「…………ッ………」
 一人になり、やっと静寂が訪れる。
 無音の空間にいるのは心が落ち着く故、昔から好きだった。
 けれど今は何故か心細くて仕方ない。
 まだ細かく震えている自らの身体をかき抱くように体勢を変えると、ゴポ、と嫌な水音がブーツから響いた。
「ぅぅ、っ………」
 ぬるい汚水がだんだんと冷えて下半身に貼りつく感覚に耐え切れず、それを脱ごうと太腿の位置にある履き口を引き下ろすが、端に付いている無数の留め具のせいで上手く脱げない。
「っ、……ぅ、ううっ……」
(落ち着け、ヤシロ)
 ムキになってそれらを乱暴に外しながらまた涙を滲ませているマスターの姿を見かねて、霧散したはずのナバールの声が頭に響いた。
「ナバール……?」
「イツキに面倒を見てもらえ。困った時に仲間という存在に頼るのは、間違ってはいない」
「ッ………」
 コクリ、と素直に頷いて膝を抱えるヤシロに、半透明のナバールはそっと寄り添った。
(それにしても……派手にやったな)
「黙れ。………今まで何処にいた」
(……ふ、なに、強がりばかり言っては人知れず苦悩していた昔のお前を思い出して……少し感慨に浸っていただけだ。姿は美丈夫になったと思っていたが、中身は本当に、五年間とあまり変わらない)
「お前まで、俺に幻滅したか……?」
(まさか。それに今回は元より不可抗力だろう。……人間、美しい面もあれば醜い面もある。そう思い悩むな、ヤシロ)
「……そうか……だが、お前の前では、一流として完璧でいたかった……」
(ほう。ではイツキに対してはどうだ? 憎いか?)
「ッ………! ……誰より……一番……こんな無様な姿を見せたくはなかった………。俺は………」
「ヤシロ、おまたせ。」
「!」
 樹が突然姿を見せたため、ボソボソと空に向かって呟いていた事に気付かれたかと、弥代が身を硬くする。
「シャワーブース押さえてきたから。行こう」
「……。蒼井樹………」
「ん?」
 弥代の目線の先には、不自然に膝頭までずり下がったロングブーツがあった。
「脱ぎたいのか?」
 頷いた弥代の意図を汲み取り、ここを持って、と樹が自らの肩口へ弥代の両腕を誘導し、長い脚を前に投げ出すよう促した。
 中のスラックスが濡れてぴったりと肌に貼り付いているため少々力が要ったが、全ての留め具を外して脹脛までブーツを下げると、ちゅぽ、と可愛らしい音を立てて靴底から足が抜ける。
「ちょっと待って、ええと、バケツ……」
 弥代の長い脚からやっと抜けたそれを手に持って、樹はキョロキョロと辺りを見回すと、積み上がった道具類の端にくたびれたロッカーを見つけた。そこから金バケツを取り出して戻ってくる。
 バケツの上でロングブーツの履き口を下に向けてひっくり返すと、ボタボタと黄金色の雫があふれ出た。
「………?」
 金属の底板に激しく反響する水音に弥代がまたビクリと怯えるように眉を寄せたのに樹は気付き、もう片方はゆっくり底を傾けて中身を流すが、チョロチョロと水がバケツに溜まる音は遠慮なく耳に響いてくる。
「う………ぅっ……」
 もう聞きたくないと言わんばかりに、弥代は両手で耳を塞いだ。ぐっしょりと濡れた下半身に床の冷たさが足の裏から直に伝わって、身震いする。
「! あ………」
 ぞくり、と感じたのは再びの尿意だった。さっきあれだけ出した筈だと思い返す余裕もなく、それは爆発的に膨らんでいくため、寛げていた股座を慌てて抑える。
 しかし一度決壊を迎えてしまったそこは、あまりにも無抵抗になってしまっていた。
 一気に、さっきも感じた水の熱さが性器全体を包み込み、手の隙間から流れ出す。
「な…、ッ……? ――――?」
「どうした? 弥代? おーい」
 急に目を見開いて動きを止めた弥代の横へ、樹が近づく。やめろ、来るなという声を上げることも出来ず、ガチガチと歯の根を震わせる弥代は、溢れ出るそれが、冷たい床に着いた尻の方にまで暖かく濡らしていくのをただ感じるしかなかった。
「弥代、立てるか? シャワー……」
 ぐい、と腕を引く樹はその異変にまだ気付いていなかった。へたり込んでしまっている弥代を立たせようと両脇に手を入れて引き上げようとして、チロチロと小さく響く水流の音と、ひき攣った弥代の声が微かに耳に入った。
「……ま、だ、出………ッ………止ま……ら………」
「えっ、ええっ?」
 よく見れば確かに、肩から床に垂れ下がった濃紫のマントの端に新たに色濃い染みができ、濡れてしまっている。
 弥代が身じろぐと、ピチャ、と股を押さえる指の間から落ちる水滴が尻の周りにできた水溜りに波紋を揺らした。
「ゴメン、こ、これに、早く……!」
 慌てて樹は先ほどのバケツを近くに持って来る。さっきよりも勢いこそなかったが、薬のせいで大量に精製されたそれはしばらく止まりそうもない。
 弥代の鋼の意思を持ってしても、もはや身体の器官は壊れてしまった蛇口のように水流を垂れ流していた。そのせいで感じる底の知れない恐怖と羞恥に、指先まで震えが止まらない。
「ヒ……ッ……っ、ぅ…………、゛ぅ………」
 弥代の頬にはらはらと涙が滴り、嗚咽が響く。
「ゴメン……ゴメンな……」
 何故樹が謝るのかと、弥代は疑問で仕方なかった。
「ッ、ゥッ、……イツ……、……ちか…ら、が………はいらな……」
「うん。全部出し切るまで、支えててやるから」
「ハァ………、ぁ………イツ……、…………」
 弥代がぶるり、と震えて、ぽたぽた、と最後に二、三滴がまとまって落ち、ようやく止まったようだ。
「終わった? じゃあ、これ巻いて行こう」
 部屋の隅に置いておいたスポーツバッグから出したバスタオルで弥代の下半身を拭い、覆いかぶせる。樹はあくまでも義務的にそれをこなしていく。が、される身である消耗しきった弥代はハァハァと息を弾ませつつも、壊れた人形のように感情のない瞳でいる。
「………ハァ……ハァ………、…ハッ……」
「……ヤシロ、ヤシロ……? 大丈夫か?」
「…………のどが………渇いた………」
「えっ?」
 小さな弥代の声を聞き取ろうと樹が顔を近づける。
 その無防備に開いていた樹の口に、弥代は吸い付いた。
 怪しい薬で急激に水分が失われたせいか、本能的に水分を摂取しようと、弥代は口内に捕らえた樹の濡れた舌に絡む唾液を吸う。狼狽える樹の奥からあふれ出た唾液を逃すまいとさらに深く吸い付くと、生暖かく甘い汁をゴクリと嚥下した。
「ンッ………! プハッ、……っ?」
「…………ハァ……ハァ………」    
 驚いて顔を紅潮させる樹と対称的に、弥代のいつも白磁器のように真っ白な顔が、さらに酷く青ざめているのに気付く。脱水症状を起こしているのだろう。
 ふらふらと揺れていた弥代の頭が、突然糸が切れたようにガクンと落ちた。
「うわっ……! ヤシロ……!?」
 ついに気を失ってしまったらしい。慌ててその重くなった身体が倒れてしまわないように支える。
 そう言えば以前にも似たような事があったと思い出しながら、樹は弥代の長く重い身体を何とか背負うと、スタッフ専用のシャワーブースへ直行した。

(ヤシロとキス……してしまった)
 弥代がほとんど無意識下の中でしたそれに、水分補給以上の意味は無いのだろうが、樹の心臓はバクバクと音を立て放しだった。
 さらに、さっきの弥代の見てはならない姿が勝手に脳内にチラついている。これまで聞いたことがない弥代の声色も。
(……不謹慎だぞ、俺)
 そうは思いつつ、温かいシャワーで汚れを服の上から流す間、眠る弥代の伏せられた長い睫毛から樹は目が離せなかった。

     ◇◇◇

 次の日のスポーツ新聞の一面には、やはりEステ生放送のハプニングの事が大きく取り上げられ、弥代がステージから忽然と姿を消したことが大きな見出し記事になっていた。
 原因不明の電気基盤のショートによる爆発が起こったという事と、あの男プロデューサーが剣弥代に対して度重なる無理な要請をしていたという番組スタッフからのタレコミがあった事から、人気アーティストとそのファンを狙ったテロ行為をマスコミに疑われ、演者や観客を危機に晒したとのブーイングで男はかなり叩かれているらしい。男の事務所のSNSも、炎上している。
 そんな中、午後になって弥代が無事である事をフォルトナエンタテイメント社長の舞子が声明を出した事で、弥代の安否が不安だったファンたちの心にようやく安堵が訪れた。
『舞台袖に控えていた事務所のスタッフが、アクシデント発生時に咄嗟に弥代をステージからはけさせて非常口へ誘導した。――だが弥代が閃光の影響で気分を悪くしており、念のため病院にて精密検査を受けていた為、報告が遅くなった。ファンの皆様に心配をおかけしたことを心よりお詫びすると共に、剣弥代への熱い声援、有り難く思います。』
 この文面を、皆納得して受け入れたようだった。
 弥代と樹を除くフォルトナのメンバーたちも、そう書かれている通りの成り行きを疑うことなく信じている。

 弥代との間で起こった真実の出来事は、一生自分の胸の内だけに留めておこうと、樹は病院の一室で点滴を受ける弥代の隣で、誓いを立てていた。
 すうすうと人形のように眠っている弥代の白い頬に被さった髪を払おうと樹が手を伸ばした時、弥代が薄く瞳を開けた。
「気が付いた? ヤシロ」
「………ここは……」
「病院。ヤシロが飲んだ危ない薬、中毒とかの心配はいらないらしいけど、しばらく様子見で安静に、ってさ。点滴終わるまで、俺、横でついてるから」
「…………」
「もう一人で無茶するなよ。何か不利な状況に立たされたら、すぐに知らせてくれ。俺が絶対に、ヤシロを守るから」
「…………ああ……。……感謝する、イツキ」
 素直に礼を言ういつもの弥代に、もう大丈夫だなとひと安心する。
「あ、でも……ヤシロのステージをダメにしたのは悪かった。ごめん」
「……構わん。観客の声援を次の公演で取り戻すのも、一流の俺にとっては容易いことだ」
「さすがだな、ヤシロ。あ……、あと……」
「?………」
「いや、いいや。何でもない」
 あの小部屋での出来事をまたあえて思い出させるのも酷かと、樹は口を噤むと黙って弥代の手の甲に自らの手を重ねた。

 冷たい手に樹の手の暖かさがじんわりと広がるのを感じた弥代が、微かに呟きをもらす。
「この身を……任せていいのか……?」
「え?」
 その言葉をハッキリ聴き取れなかった樹が聞き返す。
「………いや……。……世話をかけたな、イツキ……」
 弥代はそのまま目を瞑ると、再び眠ってしまったようだった。

 樹の前で眠る弥代の陶器のように滑らかな肌が紅潮し、色の違う双瞳から涙が滲み落ちるところ。そして細い体躯が生まれたての子鹿のように震え――いつも氷のようにクールで現実離れしている一流芸能人である弥代が、一人の人間であることの証明を。
 ……唇の味さえ、知ってしまった。
 それを己の内だけに留めることが許されたのだと、樹は弥代の寝顔を見ながらぼんやりと思っていた。

(思い上がりかな………)

 そんな風にお互いを想う気持ちが、純粋な仲間としての好きではなくなっていることに、二人はまだ気付いていなかった。



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  2016.03.02(加筆修正 2019.06.23)