ギルベルトとハンネマン支援B後の小話
落ち葉舞う肌寒い空気の中、ガルグ=マク大修道院に朝の光が差し込む。
休日である今日は先刻までの静けさから一転、門前の市場に商人たちが慌ただしく売り物の詰まった木箱を運び込み始める。それを横目で見ながら、まだ暗い早朝からぶらりと散歩をしていたハンネマンはふと、釣り池のほとりに見慣れない人影を認めた。
モノクルに映ったのは、朝日に照らされてきらきらと輝く夕日色の髪。それ以外は全て建物の影に溶け込むような灰色の出で立ちだが、首には信者の証である橙の巻物。間違いなく、あれは――
「これはこれは、ギルベルト君ではないか」
「ハンネマン殿」
椅子代わりの長い木箱に俯きがちに腰掛けていた体躯が振り返る。
釣りに興じているにしては、彼はいつもと変わらぬ固い表情だった。
「君は釣りが趣味だと先日アロイス君から聞いたのだが、本当だったのだな。さてさて、釣果はどんなものか……はて?」
しかしギルベルトの側には釣り上げた魚どころか、それを入れておく木桶すら見当たらない。
「ああ……いえ、魚を釣ることが目的ではないのです」
「ではなぜ、釣りを?」
「こうして釣り竿を垂らしていると……自らの心の内と向き合うための、丁度良い時間を得られるからでしょうか……」
そう話すギルベルトの瞳は、向き合った水面よりも深い深い青色をしている。
これはいかんな、とハンネマンは腕を組んだ。
「そうか……うむ、我輩も同席していいかね?」
「構いませんが……」
木箱から立ち上がろうとするギルベルトを制しながら、友人なのだし、肩を並べて話そうではないか、と真横に座る。同輩といえどギルベルトの方が歳上なのだろうということは彼の顔に深く刻まれた皺が物語っていたが、ハンネマンは細かい事は気にせず接することにしていた。
「君のために我々が楽しめる渋い趣味を探しておこうと思っていたのだがね。十分、良い趣味を持っているではないか」
「ハンネマン殿は……釣りの経験は」
「見ての通り、全くだ。我輩の趣味といえば、室内で出来る事が主であるな。読書、研究、紋章学……うむ、趣味といえど、ほとんど仕事と変わらん」
「私は他に、料理と、木彫りを……。昔、娘に作っていた木彫りの人形を手慰みにこの間も作り、与え……いや」
「娘……、アネット君か」
「………。」
それきり暗い顔をして黙ってしまったギルベルトに、モノクルを外しさも気付かない風を装いつつ、ハンネマンは語った。
「彼女の魔道の才は元より、弛まぬ努力を続ける真摯な性格がとくに素晴らしい。綺麗好きで、これがまた我輩と気が合う! ……ああいや、変な意味では無いので誤解しないでくれたまえ」
「いいえ、気遣いは無用です」
「はは、……だがこの前は書庫の清掃を頑張りすぎたせいか、書棚にかけた梯子から落ちそうになってね。我輩の背が高かったおかげで、なんとか大事には至らなかったのだが」
「それは……お手数をおかけしました」
「ん?」
いえ……と水面を向いた彼の顔は、やはり娘を心配する父親の表情をしていた。別に困らせるつもりはないのだ。話題を変えようとハンネマンが口を開こうとすると、低い声がした。
「ハンネマン殿は、妻子は……」
「ああ、いや、恥ずかしながらこの歳まで独り身でね。妹がいたんだが……帝国にいた時分に病死して以来、ずっと紋章学の研究、研究でね」
「そうなのですか……」
すまなさそうに眉をひそめる彼に、ハンネマンはまた腕を組んだ。
「ううむ、いかんな……せっかくの休日に、君にこんな暗い顔をさせていては……! ん? 何かかかったようだが」
ギルベルトの持つ竿から伸びる釣り糸を引く先に、魚影が浮かぶ。ギルベルトは慣れた手つきで竿を引くと、その魚は鱗を白金にきらめかせながら朝日のもとに姿を見せた。
「ほう……珍しい、プラチナフィッシュですかな」
「そのようです。もう離しますが……」
「なんと、勿体無い、市場の商人に売れば金になる。それで……娘さんに何か買ってあげればいいものを」
魚の口にかかった針を外しながら、ギルベルトは苦しげに目を閉じた。
「私には……その資格が……」
「ああ、皆まで言わなくてもいい。分かった。我輩がその魚を預かり金に変えよう。贈り物は、何が良いか……」
「ありがとうございます。しかしその選択はハンネマン殿に委ねます。魔道の教本でも花でも……使いみちはあると思いますので」
「おお、花か、それは良い」
では、とギルベルトから魚を受け取った矢先、ハンネマンの手の中で魚が激しく暴れ出した。
「うぬっ? おっと?」
魚の扱いに全く慣れていないハンネマンの有り様に、慌ててギルベルトが暴れる魚を再び捕える。
「すみません、絞めましょう。木桶に入れてきます」
「おおっ……すまない、任せるよ……。やれやれ、さっき綺麗にしたばかりだというのに……」
水滴の跳ねたモノクルを外して慌てるハンネマンに、ふふ、とギルベルトが笑みをこぼす。
「良ければ、共に市場まで行きましょうか」
「ああ、お願いするよ。それから贈り物を選ぼうではないか。花と、渋い茶菓子でも。……どうかね、茶でも一杯」
「はい。喜んで、お受けしましょう」
和かな表情で並び立つ老紳士たちの外套を、朝日に暖まった爽やかな風が揺らした。
END